精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ
ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
説明のつかない神様の贖いの御恵
キリストの中で完全な教会(6) 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5) 神様は人としては説明できない「贖い」という方法を使った。 正義で借金を返すものの、資格のある人が代わりに借金を返させた。理解できない、話にならない方法で神様も義であり、私たちも義であるたった一つの道を用意された。これが「贖いの義」である。 自らを赦しができない私たちにキリストイエスの中にある赦しによって神様の御恵によって無報酬で義だということを得させた。この道しか他に道がなかったので御自分がすべての罪の代価を自ら払ってイエス·キリストを通じて審判を受けた。最も完璧な主のみ恵みだった。そして、分け前を残しておいた。イエスを彼の血によって信仰による和解のいけにえにされた。 私が直接罪の償いをしたわけではない。しかし、信じる私たちは誰かが私の名前と私の資格で返してくれたその功労を信仰で完全に受けてイエスに起きたことを自分に起こったことと受け止めれば良い。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死んで審判を受ける時、私の名札をつけて私になって死んだので、その方が死ぬ時、あれほど変わらなかった自分が一緒に死んだことを信仰として受け入れるのだ。それで自分を信仰で死に渡し、もう自分ではなくただ私のために死んでそして生き返られたイエス·キリストにすべての生命の主権を与え、新しい生命として受け入れなければならない。 今は私ではなく、私の中にキリストが生きる人生を生きていくようにしてさせた。ついに罪悪の呪いから抜け出し、罪と関係のない神様の水準、神様の形状を成すようにさせた。聖なる主の民で、罪から自由な者として、勝利する者として生きていかせる。 最初の創造の時は言葉でされた。しかし、私たちを救う時には神様の父親が御自分の一人しかいない息子をこの地に人として送った。律法の義を成し遂げるために女から生じさせ、律法の呪いを代わりに受けて十字架で死んで復活するまで、このすべての過程を成し遂げた。神様が世の中をこんなに愛して恐ろしい罪に売られて心の中心に神様と仇になった私たちの昔の生命を終えた。天地開闢よりもっと難しいことを成し遂げられた。 私が直接したことは何もない。 しかし、イエス·キリストが私の代わりに成し遂げたそのことを私に直接なされたと信じて信仰で参加しなければならない。イエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活! 二度と罪が主人の役割を果たせず、二度と律法が私を罪に定めることができない。今はただキリストが私の主人になって生きていくことで、神様だけを愛し真理に従って天に属した人生を生きるようになされた。この夢見るようなものすごい福音を主が準備しておいて「ただ信じるだけしろ。」とおっしゃる。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
キリストの中で完全な教会(5)
「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生
私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
世界への神様の唯一の贈り物、福音
キリストの中で完全な教会(3) 私たちは罪の中で生きていて、毎日罪に引きずり回される。 そして結局、罪の奴隷で地獄の審判に向かわざるを得ない存在的罪人だ。 私たちがどうやって主が呼んだ聖なる神の息子の形を着てキリストの中に充満した生命を持つ聖なる神の教会になれるのか! 出発自体が基盤もイエス·キリストであり、目標である使命も神様の水準であるため、人間のいかなる努力や方法でもなれないと聖書は言う。 ”武力によらず、權力によらず、ただわが 霊によってと万軍の主は言われる”(ゼカリヤ4:6) 最も不可能なことがあるとしたら、それは自分の人生を自分勝手にはできないということだ。ルカ福音書18章に出てくる金持ちの官員は幼い頃から律法を破ったことがなく最善を尽くして暮らした。あれほど永遠の命を追求し、苦労して生きてきて、イエス様の前に出てきた時、永遠の命を得る道を教えてくださった。難しい要求でもない。二つの中から一つを選べばいい。お金か?永遠の命か? 永遠の命とは何か。神様の永遠の命の中で神様の永遠の祝福と生命を享受することだ。そんな永遠の命がお金と比較対象なのか!それでも目に見える誘惑に勝てず、永遠の命を目の前にしても捕まえられないまま、私たちの心がお金に対する愛着と情欲に引かれる。 宗教的な努力と最善を尽くしたとしても、自分の心を変わる決断ができなければ、38度休戦線を越えるより難しいのが自分の心の境界を越えることだ。福音をあんなに聞きながらも決断できなくて一生だらだらとぶら下がって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いか! 厳重に警戒を守って立っている休戦線よりさらに堅固に越えられないのがあれば、まさに自分の心だ。私たちは心で神様を離れ、敵になった。そんな私たちを振り返って神に向かわせること、それがまさに十字架福音だ。人間の救いと変化は絶対に人から生まれることはできない。これは神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能なのだ。 神様の召しを忘れてしまえば、教会は現実に追われて召された席を離れ妥協し変質するしかない。そのために、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。教会は人によって行われるものではない。神様の神的な能力なしには完全に福音どおり救われ、地獄の人間が天国の人に変わる真の変化は一人にも起こり得ない。人間のいかなる努力や方法や制度になることはできない。神だけができることだ。 神様が私たちを本当にこの世を変化させる教会であり聖徒に変化させる福音の能力。この能力が我々に臨まなければならない。その時初めて教会は真の神様に召された場所に立つことができ、この世を変えることができる。そして世の中は彼らを変えられる能力を教会を通じて得ることになる。生きている神様がこの世に向かってくださった唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師、 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム] 速度を落とせ、記憶せよ、楽しみにしろ。
”降臨節、これは何か驚くべきことが近づいていることを意味する” クリスマスが近づくと、何か素敵なことが起こりそうな気がする。あなたもそうかな? 遠くから聞こえてきた音がだんだん近づいてくるように、愛する人が空港ターミナルを出てくる姿を見るように、水平線の向こうから太陽が昇る瞬間のように、そして長い間待ち望んでいた夢がついに現実になるまさにその瞬間のように、クリスマスには何か素敵なことが起こりそうだ。フレデリック·ビクナー(Frederick Buechner)は次のように書いた。 ほんの一瞬、あなたは空気の中で一度も行ったことのない場所、そして言葉では言い表せない時間を思い出させるある香りを嗅ぎます。今、自分の心臓の鼓動を感じるほどです。これから起きようとする特別なことは、ただそれが起こる直前がもたらす特別な瞬間とだけ比較することができます。その瞬間の名前は降臨節です。 降臨節、これは何か驚くべきことが近づいているという意味だ。 速度を落とす時間 今週は教会の節気によってクリスマス前の4週目に始まる降臨節が始まる日だ。今はキリストを宝物にするために心を準備する時だ。しかし、忙しい年末の混雑の中で、私たちはこの大切な待ち時間をあまりにも簡単に浪費したりする。慌ただしい12月をまともに記憶することがどれほど大変なのか、消費主義時代が作り出したもう一つの犠牲者になってクリスマスを目前にする気持ちがどんなものなのか、私たちはとてもよく知っている。 反応する。組織する。ショッピングする。計画する。包装する。予算を策定する。ストレスを受ける。食べる。ストレスのために食べる。 私が今この文を書く理由は、私と同じように速度を少し遅らせなければならない人々、有名なキャロル「私たち皆が主を迎える準備をしよう」(Let every heart prepare him room)が必ず必要な人々のためであるのだ。 覚えなければならない時間 クリスマスに成就した神様の約束を記憶する時、私たちはキリストの成肉身がこの世をどれほど強力に揺るがしたかを思い出すことになる。クリスマスの意味は家族の伝統、きれいな照明、古い靴下をかけておくのとは比べ物にならないほど深い。 クリスマスは革命を意味する。クリスマスは奇跡を意味する。クリスマスは神様が私たちのために来られたことを意味する。天の王が王座をゆりかごに変えたことを意味する。全能者が自分を弱さで包んだことを意味する。創造主が被造物の中に入ったことを意味する。著者がページの中に自分を入れたことを意味する。無限の人が赤ちゃんになったことを意味する。与える方が贈り物になったことを意味する。 イエス様はイマヌエル、すなわち私たちと共にする神様として来られた。ずいぶん前にアウグスティヌスはこう言った。 「その方は御自分が創造した母親から創造されました。その方は御自分が作られた手によってこの世に出てこられました。」神様がどのように私たちのそばに近づいたのかを熟考すれば、その方をもっと知りたいという欲求が深まるだろう。 期待の時間 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、その方の再臨に対する深い熱望を悟らせる何かがある(計22:20)。この時代の教会は旧約の終わりに向かっていた神様の民と色々な面で似ている-まるで流刑者のように周辺に押し出されており、闇の中で希望を抱いており、トールキンの言葉を借りれば「すべての悲しいことを消える」ようにするキリストの再臨を息を殺して渇望する-位置にある。 神様の民は過去のクリスマスの幸せな思い出と来るクリスマスの興奮が与える息詰まる期待の間で浮き立ってクリスマス前夜を過ごす幼い子供と変わらない。私たちはキリストの復活が与える「ハレルヤ」とキリストの再臨が与える「マラナータ」の間で暮らしている。そして降臨節を待っている今、この場で神様の民は礼拝の期待というレンズを通じてのみ見ることができる独特の喜びを発見する。ティモシー·ポール·ジョーンズ(Timothy Paul Jones)は次のように説明する。 降臨節を迎えたキリスト教徒は、うめき声が現在の貧弱さのために生じた希望のないすすり泣きではなく、イエス様が私たちのために準備している神聖な宴に対する切実な熱望のためであることを認識して受け入れる。 … 古代イスラエルの民が肉身で来られるメシアを待っていたように、私たちもメシアが栄光の中で再び来られることを待っている。降臨節を迎え、信仰のある信者はこう告白する。童貞女の膝の間から荒い息を吐きながら生まれた赤ちゃんには、まだ言うべき最後の言葉が残っていると。 降臨節は私たちはこの世を通り掛かる巡礼者であることを、罪悪で壊れたこの世の中がずっとこのままではないことを、真の王が本当にすぐ来られることを再確認する時間だ。[福音祈祷新聞] 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、彼の再臨に対する深い熱望を呼び起こす何かがある アダム·ラムゼイ(Adam Ramsey) | アダム·ラムゼイはLiberti Church(Gold Coast)を率いており、またActs 29 Australia/New Zealandのネットワークディレクターとして仕えている。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音の前に立つ時が来た。
福音に対する二つの反応(7) 闇が勢力を拡大し、からしの種のような光を覆い隠そうとしても、闇は絶対に光を覆うことはできない。もちろん人間の弱さやミス、罪悪は必ず整理されるようになっている。しかし、主の福音が冒涜を受けることが続けば、私は生きている限り、すべての機会を持ってこの蛮行を全世界に知らせるだろう。 500年前の宗教改革当時、聖書を持ってれば燃やして殺した。すべての信者は魂の抜けた人として扱われた。しかし、マーティン·ルーサーが宗教改革の炎を起こした時に無知で何も知らないようだった平民が爆発的に起きた。それが宗教改革となり、その実を今我々が享受している。私たちは霊的な存在なので何が正しくて何が間違っているかは知っている。今はだまされないで違うことは違うと言って福音の前に立たなければならない時が来た。このままではいけない。福音を栄えなければならない。 主は生きて居られる。神様に立ち向かって真理に反する者は決して安全ではない。良心に逆らったり、神の聖なる真理の前に正しくない態度は決して安全でも正しくもない。マーティン·ルーサーのように、私たちは主の前で叫ばなければならない。「主よ、私がここにいます。私を助けてください。私は他のところに立つことはできません。」生きて居られる神様の国がからしの種のように小さく見えて麹のようでもその国は誰も耐えられない生きている神様の威力を表すだろう。神の統治が臨む私たちの中にある天国は、聖なる国であり、誰も汚すことはできない。十字架復活、福音の能力が私たちを聖なるものに導き、勝利させ、真理で結論を出させ、「イエスならそれでいい!」を叫ばせる。この世が待ちわびている福音はただイエス! キリストの血のついた福音だ。この福音が歴史を変え、列強のすべての魂を救うだろう。ハレルヤ!我が主は生きて居られる! 私たちの教会は腐っていない!神の教会は神聖だ! 福音は光栄だ! 普遍妥当な世の中の権力や教権、流行、時流によって恐れられたまま押し流されるか、それとも一日だけを生きるとしても神様の聖なる真理の前に立つか。「主よ、福音で詐欺を働いたり偽善者にならず、福音を生命で証言する者にしてください。 私と一緒にいてください。私は真理以外のものを選ぶことはできません。」自分は果たして真理の側に立っているのか。自分はキリストの側に立っているのか。自分の利益に従わずにいつも主の国の側に立つだろうか。「御霊よ、私たちを照らして下さり、私たちが悔い改めて神様の福音に駆けて進ませてください。」(2018年6月)<終わり>【福音祈祷新聞】 キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載してご使用ください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
戦争と暴力の中で平和を渇望するミャンマー
ミャンマーのある青年が村の井戸から水を勢いよく汲み上げる。 誰でも喉が渇いたら来て飲める。 ミャンマーでは昨年2月、軍部によるクーデターが発生した。国連難民機関(UNHCR)が5月23日に発表した資料によると、クーデター後、故郷を離れた失郷民が694万3000人に上るという。国連人権最高代表事務所(OHCHR)が最近発表した年次報告書には、クーデター発生後、軍部側が犯した殺人、拷問、性的暴力などの証拠だけでなく、民間人に対する意図的な攻撃、無差別殺人、村全体の放火などの戦争犯罪証拠があると明らかにした。特に軍事政権は持続的な教会放火とキリスト教徒殺害、教会を爆弾で破壊しており、教会に入って献金などを奪い取っているとオープンドア宣教会が伝えた。サイル区地域で多くの仏教塔と法堂は一発の銃弾攻撃も受けなかったが、キリスト教徒の家と教会は破壊され、キリスト教徒は獣のように殺害されている。 暴政と不義と殺人でミャンマーの魂は喉が渇いている。罪人がもがいて自ら汲み上げた水は再び喉が渇くだけだ。しかし福音であるイエス·キリストがくださる水を飲めば永遠に喉が渇かないだろう。アーメン 「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:13~14)[福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい
福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム]根本主義(3):根本主義の衰退
私たちは根本主義運動の先駆者に大変な負い目を負っている。悲しいことに,過去の世紀に彼らの戦いの必要性を理解するキリスト教徒はほとんどいない。彼らが大胆に乗り出さなかったら,多数のアメリカの教会が宗教改革の心臓部であったヨーロッパを霊的に荒廃させた,偉大な力を持つ神学的自由主義の影響に降伏していただろう。 元々根本主義者たちは聖書的教理が軽く受け入れるにはあまりにも貴重だということを理解していた米国の神学者たちと牧師たちだった。彼らは聖書の無誤性、キリストの唯一性、復活、永遠な生命と永遠な呪いの現実、人間堕落のような根本的なキリスト教の真理を断固として弁護した。この初代の根本主義者たちは神様のみ言葉に対する固い意志と真理に対する交渉を拒否することで勝利した。これが、自由主義が米国教会の景観を絶対覆せない理由であり、聖書を最高に考え、福音を忠実に伝える教会が今にもある理由だ。 しかし、悲しいことに、根本主義運動は初期に成功するや否や、ほぼ同時に緩み始めた。学問的に認められるために必死だったある集団の根本主義者たちは、時代の流れであった多元主義から自分を守ることができなかった。神学的自由主義に対抗して設立された学校は、自由主義神学に過度に露出されて、初期の根本主義の強力な立場(聖書の無誤謬)を放棄し、聖書の無誤謬について妥協し始めた。驚くべきことに、一部の根本主義学校と教会は、創立した一世代が過ぎる前に、聖書の無誤性に対する彼らの献身を放棄してしまった!これらの機関と関係のある人々の大半は速やかに「根本主義者」という名を否定して捨てた。 もうひとつの根本主義の集団は反対方向に動いた。彼らは学問的に認められることに執着していた仲間たちが、根本主義の基本をあきらめてしまったことをよく知っていた。そのような理由で彼らは学問に不信を抱いたり、または学問を完全に捨ててしまった。このような根本主義的運動の右派は争い好きの分離主義者によって絶えずに分裂してしまった。彼らの中で律法主義者たちは外面的に現われる問題だけを極度に強調した。時々些細な問題が主な討論や議論となり、重大な教理を代替することがあった。これらの群れは、信者たちの実在的な根本を守るための時間よりも多くの時間を人々の髪の長さや女性の服装など重要でない問題を討論することに多く時間を費やした。 つまらない口論を好むすべての極端な律法主義者はついに根本主義という用語を傷つけてしまった。知能的にも気質的にも,この集団の根本主義者たちは根本主義運動の父達があれほど強力に守ってきた高い信念を完全に捨てた。その結果,根本主義運動は教理を巧みに軽視する誘惑に負けてしまった。この集団の根本主義者たちが出版した資料の中に、真の教理的または聖書的な深みを持った重要な著作物が全くないという点は注目に値する。そして、「根本主義者」という用語は、この好戦的な群れの代名詞になってしまった。 ここ数年、根本主義者という言葉は世俗的なマスコミによって誤用されてマスコミは自分たちが考えることのできるあらゆる宗教的狂信者にこの名前をつけた。 門を広く 初期の根本主義の論理的で神学的だった精神はすべて死んだ。 現代の福音主義者はあまりにも喜んで教理を過小評価している。根本主義的な先輩たちとは異なり、現在多くの人々は真のキリスト教が幅広く異なる―その上矛盾である―信仰体系まで受け入れるほど十分に広がらなければならないという提案に完全に同意している。多くの福音主義者は根本的な教理上の違いにかかわらず、カトリック、東方正教会、極端な恩賜主義者、自由主義者を自分たちと同じように考え、彼らとの霊的同盟を結ぶために努力している。 歴史的に福音主義者と根本主義者はほとんど普遍的にエキュメニカル運動を拒否してきた。エキュメニズムの主な力は世界教会協議会(World Council of Churches)であったが、聖書的なキリスト教は全く関係なかったこの団体は、超自由主義的な教団の中から会員を募集することを好んだ。結果的にエキュメニズムは、福音主義者に少しも影響を及ぼすまでには至らなかった。 エキュメニカル運動の最も栄えた時代であった1960年代にも、福音主義教会は劇的な成長を経験してエキュメニカル教会は急速に衰退した。10年前の世界教会会議は失われた運動の遺跡のように思えた。 しかし、今やその絵が変わっている。驚くべきことに、今最も強力なエキュメニカル勢力は、沈みつつある福音主義の下で、恩賜主義運動、カトリックと福音主義の一致、協同的な大衆伝道、そしてキリスト教言論界の声とともにある。 高さを下げる 主な福音主義の特性である「根本」を剥奪しようとする攻撃的な努力が続いている。福音主義の影響力のある声は、根本を最大限受け入れられる最も単純な"信仰の陳述(the Statement of Faith)"に変えるように促す。そして、こうした声は全般的な福音主義の中で聞くことができる。より広い寛容とより包括的なものを訴えるのは,恩賜主義者,世代主義者,カルヴィン主義者,アルミニアン,改革主義者,ルーサー教の指導者,すなわちあらゆる種類の福音主義者から来ている。 (2013年に死ぬ前まで)トリニティ放送ネットワークの会長だったポール·クラウチ(Paul Crouch)を例に挙げると、彼は"私がよく言っているように、ある神学者が異端だと考えるのが他の神学者には定説です"と述べた。しかし、クラウチは我々が我々に一機に与えた信仰のために力を尽くして戦わなければならないというユダ書の3節を知っていた。彼は言った。"それなら『信仰』とは何か?" クラウチは、絶えずに成長する人々の声のなかで、使徒信条が「信仰」に属する者とそうでない者の境界線となるべきであると主張した。しかし使徒信条が果たして我々にキリスト教信仰の最も確かで交渉できない根本を提供するのだろうか。そして、私たちは使徒信条がどれほどこのような問題に対して権威があると自信を持つことができるか。次の時間に、この点について見ていくことにしましょう。 キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?
あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
アポリュミ (άπουλλι), 弟子道のクライマックス
ヘブライ語で出会う福音書(11) ルガの福音書9章23節は24節と繋がっており、24節で弟子道の最高の絶頂をなす。イエスは皆に言われた。“わたしについて来たい者は,自分を捨て、毎日自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。”とピリオドを打ち、新しい文章が始まるのではない。 続いて“私に従い”の後、重要なことは“自分の命を救いたいと思う 者は,それを 失うが,わたしのために命を失う者は,それを救うのである。”と述べなければならない。 ヘラ語の言葉遊び(word-play)を通じて、“自分を捨てるー十字架を背負う-主に従う-自分の命を失う”、この4つの単語が合わせて救いに至るというイエス様の言葉になる。これはヘラ語の最初のアルファベットである”アルファ”(α)で始まる3つの単語が結合して作られたが、本当に不思議で驚くべきことだ。 “ἀρνέομαι”(アルネオマイ=自分を捨てる)、“αἴρω σταυρός”(アイロス=十字架を負う)、“ἀκολουθέω”(アコロールテオ=従順して最後まで神様に従う)、弟子道の頂点である”αοποιιι”(アポールリミー命を失う)に至ることになる。 弟子道の頂点は自分をこの世で徹底的に憎み破壊し、自分に対しては何も残さないことを意味する。 この地で‘私’という病んだ自我(ego)に対して空中分解させてしまうのだ。このように4つの単語を合わせると(シグマ、Σ=合算)、”Σ́ωω”(ソゾ=救う!)、そうすることで救いが得られるということになる。 これが聖書が語る福音である。このような福音が講壇で大胆かつ当然に宣布されなければならない。 そうして初めて神様の前で私たちの魂が震えるようになる(エペソ6:19-20)。“わたしが 顧みるのは苦しむ人,靈の砕かれた人、わたしの言葉におののく人”(イザヤ66:2) 私たちは神様の御言葉を徹底的に塞いでいる自我を徹底的に憎まなければならない。福音は最も嫌悪でいやらしい自己への徹底的な憎悪を求める。 この自己嫌悪は神様の国に入るまで続けられなければならない。実際、自分を捨てる(ἀρνέομαι)というヘラ語の単語の意味は‘交際を拒否する’ということである。 真にキリストの弟子になって罪を許されて永生を得て神様の国に入ることを望むなら、これ以上自分自身と交際して付き合うことを“駄目!”と拒否しなければならない。病んだ自我と交際してそこに取り付いて得られるものは何もない。 罪である自我に対しては身震いをして、これ以上何の関係も結んではならない。決断しよう!そしていつも神様の御言葉に耳を傾け、無条件に言葉に従おう!そして、何事があっても御言葉の前にうつぶせにならなければならない。 自分を捨てるのは自分自身だけでなく家族も含まれている。そこで、主はルカの福音書9章23-24節の言葉が抽象的にならないように具体的に述べた。“自分の家族の者が敵となる…。(中略)…また, 自分の 十字架を 擔ってわたしに從わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを 失い、わたしのために 命を失う者はかえってそれを得るのである。”(マタイ10:36-39) [GNPNEWS] キム·ミョンホ教授(福音祈祷神学研究所) 筆者はイスラエルで旧約を専攻し、ヘブライ語が神様の心を込めた言語であることを悟り、現在聖書言語学校を通じて信仰の世代を築くことに全力を傾けている。
[TGCコラム]十字架で恐怖と直面する
“イエスは、目の前に置かれた死に真正面から迎えて十字架に耐えていらっしゃった。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。” “ドロシー万歳! 邪悪な魔女が死んだ!”ドロシーはおぞましい魔女に水バケツをかけて辛うじて退けた。魔女はゆっくりと溶け出した。6才の幼い心でこの場面を見たら心臓が張り裂けそうになってドキドキしてた。たまたまあったバケツのおかげで災いは免れたが、話はまだ終わっていない。魔女の棒を手に入れた後、ドロシーは家に帰る方法を探すためにオズ魔法使いの宮廷に入った。魔法使いの巨大な頭が火炎、煙の中で叫びながら迎えた。妹とわたしはあわてて枕に顔をうずめた。怖かったけどオズの栄光が我々の興味を引いた。 生まれてからこれほどの衝撃的な出来事を経験したことがなかった。ドロシーがオズの魔法使いを追い出すほどに大きなバケツは世界のどこにもなかっただろう。だけど希望が消えたように見えたとき,ドロシーの小犬,トトはカーテンを引っ張った。ドアが開くと白髪の男が立っていた。 “カーテンの後ろにいる男のことを気にするな”と偉大な魔法使いオズは言った。しかし、なんと、その人は偉大な魔法使いオズではなく、マイクを持った年老いた男に過ぎなかった。詐称劇は終わり,ドロシーの赤いルビー色の靴が彼女をすぐに帰宅させるだろう。 人の心は恐怖に捕らわれやすい。多くの人にとって,この程度の監禁は長い間外傷を残す。ミシェル·モンテーニュの言葉によると、”私の人生は恐ろしい不幸に満ちていたけど恐怖に襲われることはほとんどなかった。” 恐怖は、私たちが見るすべてのものを占領するほどに精神と情緒を作動させるものをを支配する。 聖書で‘恐れるな’という訓戒にもかかわらず、イエス様がおっしゃった“安心しなさい。。。恐れることはない。”(マタイ14:27)や“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(ヨハネ第一4:18)という言葉にもかかわらず、恐怖は私たちを締め付けるのに非常に簡単である。恐れるなという聖書の言葉はシェイクスピアの有名な詩’もう恐れないで’のようによく私たちの耳に響く。 きらめく稲妻をもう恐れないでください。 すべての恐ろしい雷も恐れないでください。 中傷謀略の非難を恐れないで。 君は喜びも悲しみも終えた。 すべての若い恋人たち、恋人たちは誰でも 君に任せに土に帰りなさい。 この詩はタイトルが恐怖から抜け出す道を暗示するため注目できる。しかし、シェイクスピアがある希望を心に描いたら、それは今生ではなかったはずだ。詩の最後の一節のように彼はあなたを墓に連れて行くのである。 しかし、新約聖書は死に対する違う概念を提案する。例えば、イエス様は“一粒の麥は地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが、死ねば、多くの實を 結ぶ。”(ヨハネ12:24)と言った。死は終わりではない。むしろ人生の始まりであり、恐怖が力を失う通路である。どんな姿であれ恐ろしさはこの詩の最後の一節で私たちを迎えない。 一例を挙げると、1505年7月のある日,マーチン·ルターは馬に乗って家から学校に行く途中で雷に遭った。速い速度で動いていた雲は彼の旅行の最初には優しい雨を降らせたが、雨脚は激しくなった。雷が耳をつんざくような音とともにルター周辺の地面に打ち下ろす前に空がぴかっと光った。あまりにも危険なほど近寄りすぎて,彼は恐怖のあまり地面に落ちた。自然の怒りにルターは叫んだ。“助けてください、聖母アン! 修道僧になります。” 500年が経った今、ルターが経験した恐怖が彼の信念の旅を始めたことに気づく。この例のように、私たちは恐怖の影響で世の中に追い込まれている数多くの人々を見ることができる。そうした経験は我々の実在にとって転換点となるほど重要かもしれないが、よりもっと大きな最後の決戦をわずかに反映するだけだ。詩人ロザンナ·エレノア·レプロホーン(Rosanna Eleanor Leprohon)は‘ゲッセマネでイエス’という詩でこのように書いた。 疲れきった弟子たちがみんな眠っている間、 一人深い苦痛の中にいた 一緒に祈る人ももいないし、 一緒に泣いてくれる人もなく その前に置かれた高く上げるべき、 死苦の十字架 幾多の罪人たちの魂を得るために 死にかけるゲッセマネの園! 神様だけの経験 苦しくて悲しむ人に 大切な証が残され 傷ついた心がもっと強くなり、 罪におわれて絶望に陥って死んだ イエスは、目の前に置かれてある死を正面から迎え、十字架を耐え抜いた。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。永遠な過去から父と完全な交際をしていたその方は見捨てられた。神の怒りは絶えず怒りにあふれ、神様との関係は神聖さの恐怖によって隠された。その罪の重みの下でイエスは叫んだ。“エリ, エリ, レマ, サバクタニ”これは,“わが 神,わが 神,なぜわたしをお見捨てになったのですか ”という 意味である.(マ27:46)。 私たちは神の裁きを受けるのが当然だ。我々は愛の神から断絶された。しかし神の救いの恵みのおかげで、その呪いを私たちのために耐えられた。キリストは我々の闇の中に投げ込まれた。そして死から復活されて神様の右に腰を下ろされた。今イエス·キリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。また父に捨てられることを恐れる必要はないので、何も恐れる必要はない。 [福音祈祷新聞] “イエスキリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。” クリス·キャスタールもChris Castaldo|米国イリノイ州ネイパービルにあるNew Covenant Church先任牧師。代表著書’Justified in Christ’ このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 […]
アニメ’選ばれた証人’… 復活の最初の証人 マリアの視線から見たイエス
イエス映画プロジェクト製作、250の言語に翻訳計画 マグダラのマリアの目でイエスを見る短編アニメ『選ばれた証人(Chosen Witness)』がオンラインプラットフォームで人気を集めて公開してから3週間で全世界で2万人が視聴したとクリスチャンジャーナルが最近報道した。 選ばれた証人は、イエスの話を9分25秒に要約した短編アニメーションで、38カ国語で制作されて今後250国語に翻訳される予定だとジーザス·フィルム·プロジェクトが明らかにした。 常任プロデューサーのエリザベス·シェンケルは、このアニメを通じてイエスを見る3つの方法を紹介した。 まず、マリア·マグダレーナの目でイエスを見ることになるだろう。 彼女はキリストに従っただけでなく,復活の最初の証人だった。マリアはイエスに会って初めて人生の変化を経験した後、常にイエスのそばに留まった。彼女はキリストの受難の時にもイエスのそばにいた。 第二、実際にこのアニメーションはイエスの物語である。 イエスの全生涯を要約した。9分間イエスの生涯と死と復活を見ることになるだろう。もしイエスの話をしっかり見たければ、『イエス』と『マグダレナ』の映画を見ればいい。 第三、神様がキリスト復活の最初の証人としてマリアを選んだ時に戻ってい見ることが重要だ。当時マリアのような女性は社会から疎外されていた。女性は法廷で証人として認められなかった。それにもかかわらず、神様は歴史上最も重要な事件の最初の証人としてマリアを立てた。 エリザベス·シェンケルは”神様が女性の地位を高め、男性と同等の価値を持った存在にしたのだ。当時としては革命的な見方だった”と、”イエスは疎外された人を通りすぎずに彼らと共にしながら’彼らが私がここにいる理由’とおっしゃった”と説明した。 「イエス·フィルム(Jesus Film)」は1979年、映画<イエス>を製作してアメリカ250個の映画館で上映、1985年には「イエス映画プロジェクト」宣教会が創立された。 2009年現在、‘イエス映画プロジェクト’は1071ヶ国語で<イエス>映画を翻訳、423ヶ国語でオーディオイエスの話を、135ヶ国語で子供のためのイエス物語を制作した。また、映画『マグダレナ』を48ヶ国語に翻訳した。 現在、イエス映画プロジェクト宣教会は30本の短編映画を製作している。この宣教会はこれまで1500あまりの宣教会と同役し、5億人が映画を通じてイエスに従うことに決断する姿を目撃した。 クリスチャン·パースペクティブ イエス様がみずからおっしゃったことだ。“罪人を呼びに来た”(マ9:13) なぜなら、イエス様は罪人に永遠の命を与えに来たからだ。神様にかたどってで創造された人間が神から離れて罪を犯して聖なる神様と共にすることができなくなると、愛の神様は息子であるイエス·キリストをこの地に送り、十字架を通じて人類を罪から救った。それだけでなく、神様と永遠に共にする生命として回復された。この福音を聞いてイエス様の十字架の死と復活に信仰で参詣した人々だけが証人の人生を生きることになる。その最初の証人としてマリアがいたとすれば、今日まで数多くの証人がイエス·キリストの福音を信じて永遠の命に向かって進んできた。 この短いアニメーションを通じて福音が聞こえ、多くの人々がイエス·キリストを信じて証人に立てられるよう祈ろう。 [福音祈祷新聞]
創造の理由は神様の溢れ出す喜びのためです。
人々は人生の中で多様な喜びを享受します。温かい人間関係において喜びを感じたり、逆境と困難を乗り越えて行く中に喜びを感じたりします。また、夢見ていたことを成し遂げる時にも喜びます。 このように喜びには、さまざまな理由がありますが、一つの共通点があります。それは嬉しいことが起きたら、その嬉しい知らせを他の人に話したくなるということです。このように喜びは溢れ出す属性があります。 そして、喜びの理由の中で最も根本的な理由があるなら、それは存在的喜びでしょう。存在的喜びとは、ある対象が何か優れたことをしたり、功績を挙げなくても、存在すること自体が喜びを与えることを意味します。 例えば結婚して10年以上子供を待っていた夫婦に、ようやく第一子が生まれたとすれば、この子の存在が親に与える喜びがあります。まさに存在的な喜びです。 このように父なる神、御子、聖霊の間には、お互いの存在に向かって無限の喜びがあります。このような三位神様の喜びはお互いに完全な満足を与え、永遠に幸せな愛の交際でした。 そして、神様の中にあるこの無限の喜びは、そのあふれ出る属性に従って、三位の神の中に留まらず、外に爆発するように噴出してきました。このような神様の喜びの表れが創造事件なのです。 神様は御自分の完全な愛と喜びを分かち合う対象を永遠の前から夢見ました。そして、最初の人のアダムを御自分をかたどって作ることと計画されて、彼から始まったすべての生命を自分の息子たちにすることに決めました。 そして、神様は、その御子であるイエス·キリストの中で、この計画を創世前にすでに完成されました。 イエス ·キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって與えてくださった輝かしい惠みをわたしたちがたたえるためです。(エペソ人への手紙1:5-6)[GNPNEWS] 資料提供:ティーアンドアールミッションコミュニティ
世間と区別された聖なる
バーネット·ニューマンの「ハナイム(Onement) ユダヤ系米国人画家バーネット·ニューマンが1948年作<ハナイム(Onement)>を初めて発表した時、多くの学者がニューマンの描いた「帯」がどういう意味か熱い論争を繰り広げた。 筆跡もほとんどない平らな背景に明るい色の線が一つ引かれただけだった。攻撃的で激情的な作品を描いた抽象表現主義者たちはこれまで自分たちと付き合っていたニューマンがこのように単純な画面を描くや、つい裏切られたと感じた。しかしその後もニューマンは「帯」を描き続けた。そして創造、始まり、約束、アダム、イブのような’創造’にかかわるタイトルのためにニューマンの帯は’光あれ’という神様の命令を描いた抽象画で知られるようになった。 ある人はニューマンの帯は二つに分かれるという意味だといい、ある人は神様と人間の間の約束(covenant)を意味するとも言った。ある人は彼の絵で神様の前に立つ人間を見た。題目は‘一つ’と関係があったが,多くの人がニューマンの絵で’分ける’と’区別’を感じた。 しかしニューマンの帯は事実‘聖なる’と関連がある。ユダヤ人は精潔食の律法に従ったが、ヘブライ語でこれを’カシャロット’と呼ぶ。 ‘カシャロット’は,‘カルドシュ’から由来された。ここで、カドシュやカシャロットはすべて‘区別’の意味と関連がある。ローマ書でパウロは“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。”と言ったが、この神聖な区別もカドシュを意味する。 また、神様は私たちに“あなたがたは 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである”と‘命令’された。すなわち、世の中からの区別は神様と一つになる聖を指す。世の中に住むが区別され、神様と一つになった聖徒の人生。背景の真ん中に描かれながらも、色は区分されたニューマンの<一つ>は、まさにこのような聖徒の人生を描いたのではないだろうか。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 『著作権者ⓒ福音祈祷新聞』本誌の記事は、国々を抱いて祈る方々に使えるよう許容しています。出典「福音祈祷新聞」を明らかにして使ってください。 ご活用の方は本紙にてお知らせください。 連絡先:gnpnews@gnmedia.org