神様はあなたを存じております。

誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

「神様は本当に生きておられるのか?」

誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!

神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

戻ってきた息子を取り戻した父の喜び

信仰は聞くことから生まれると聖書に記録されています。その聞かれた御言葉、信仰の先人たちが残した言葉や告白を要約、紹介します。<編集者> 放蕩息子のたとえ話の要点はただ一つです。実際、その一つで十分です。その核心は、息子が帰ってきたときに父が喜んだということです。 その喜びは単に息子に対する父の自然な愛の表現ではありません。失った息子を再び見つけたとき、父の心を満たした安堵感、感謝、言葉にできない誇らしさが混じった圧倒的な感情の表現でした。 ですから、このたとえ話で重要な点は彼が「堕落した」という事実ではなく、彼が「息子」であったという点です。父がそれほど大きく喜んだのは、その息子を失ったが再び見つけたからです。この息子は父の心に他の何ものにも比べられない貴重な存在であったため、彼が戻ってきたということはそれほど貴重な存在を再び見つけたことを意味しました。 だから父は息子が帰ってくるとき、家にただ座って彼を迎えたのではありません。息子に対する憐憫の情でいっぱいになり、まだ遠くにいるのを見て走り寄りました。彼を迎えて口づけし、召使いたちに命じて彼に最も貴重な衣を着せ、汚れた足を洗い、靴を履かせ、指に指輪をはめさせ、肥えた子牛を捕らえて宴を開き、音楽を奏でました。なぜなら、父の言葉のように「この息子は死んでいたのにまた生き返り、私が失ったのにまた見つけた」からです。 私たちは何度も繰り返して話を聞くと心が鈍くなります。主が感動を与えたいと思ってもそれを受け取ろうとしません。しかし、これが私たちの姿であっても、罪人が悔い改めて戻ってくるとき、神は放蕩息子の父が息子を迎え喜ぶように喜ばれます。この偉大なメッセージに誰が驚きと感動を覚えないでしょうか?[福音祈祷新聞] ベンジャミン・ウォーフィールド③ <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

救われないほど悪い罪人はいない

ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ、正確に言えば失われた息子のたとえが出てきます。次男が父から先に自分の相続分を受け取り、浪費して帰ってくると、父は喜んで彼を迎え入れます。 しかし、彼の兄はこのような父の態度が気に入らず、父が勧めても次男のために父が開いた宴会に参加しないという話です。 このことに関しては様々な解釈があります。 しかし、このたとえが与える教訓と核心は何でしょうか。それは、罪の深さがどんなに深くても再び戻ってくれば神が必ず受け入れてくださるという、実に偉大で言葉では言い尽くせない感動的な真理がこのたとえの中に存在していることです。 罪人があまりにも悪くて全く手の施しようがない場合もあるかもしれません。しかし、救われないほど悪い罪人はいません。次男は自分が受け取った相続分を好き勝手に浪費してしまいました。父の家から持ち出した全てを一つも残さずに浪費し、自分は完全に裸の状態になってしまいました。 この放蕩息子はその地である人の足下にひざまずいて乞うようになってしまいました。その人は放蕩息子を荒れた畑に送り出し、彼はそこで豚の世話をする身となりました。ユダヤ人にとって豚の世話をすることほど恥ずかしく惨めなことはありません。しかし、その失われた息子は豚に餌を与えるだけでなく、自分自身が豚の餌を食べて命をつないでいました。 放蕩息子の極度の状態に関するこのような描写から、ユダヤ人にとって嫌悪感を与えた徴税人たちの実態の一端を垣間見ることができます。彼らは自分の同族を捨て、その豚のような異邦人に仕えるだけでなく、実際にその餌箱から腹を満たしていました。主は放蕩息子の惨めな状況の極限をこのように描写しています。 主は罪人を慰めますが、単に黙認するわけではありません。主が彼らの本当の姿を知らず感じていないから彼らを受け入れるのではありません。<続く>[福音祈禱新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。

これは中国で実際にあった話です。 両親を失って暮らしていた二人の兄弟がいました。兄は弟を非常に愛していました。兄は評判の良い人でしたが、弟は喧嘩と賭博を繰り返す不幸な人でした。 ある日、弟が乱闘中に感情が高ぶり、ついに人を殺してしまいました。警察に追われた弟は急いで兄のもとに走り助けを求めました。兄はしばらく何かを考えた後、決然とした表情で弟の血のついた服を脱がせ、自分の服と取り替えました。 弟が兄の服を着て逃げた後、兄は現行犯として逮捕され、ついに死刑判決を受けました。一方、恐怖に駆られて逃げていた弟は遅れてこの知らせを聞きました。苦しんだ末に自首し、警察は彼をすぐに収監しました。 この事件は社会的な関心を集めて再び裁判にかけられました。陪審員たちの長い審議と討論の末、ついに裁判官は判決を下しました。「無罪を宣言します。」その理由は、弟の名前で既に法が裁きを執行したためでした。同じ事件を二度処罰することはできないという理由でした。 確かに彼は罪人でしたが、法は彼に罪を問いませんでした。誰かが彼の代わりに罪の代価を支払ったため、彼は法的に罪がないことになったのです。罪は最終的に神の法を破ることですから、救いを得るためにはこのように法的に明確に罪がないと認められなければなりません。 死刑執行前に兄が残した手紙を弟は遅れて読むことになりました。 「私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。今やあなたは私の服を着て、私のように生きてくれ。」 「キリストと一つになるためにバプテスマを受けた者は皆、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:27)」 [GPNEWS]

福音は私たちの中で実際にならなければなりません。

この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

十字架がなぜ唯一の救いの方法なのでしょうか?

神の救いの方法がなぜ必ずしも十字架でなければならないのでしょうか? 十字架刑は当時ローマで最も残忍な死刑のひとつでした。 死刑判決を受けた罪人が十字架に釘付けにされ、数日にわたってゆっくりと死に至る刑罰が十字架刑です。ユダヤ人にとって、十字架に釘を刺された者は神に呪われた最も罪深い人と見なされました。 「木にかけた者は、神からの呪いを受ける者である」(申命記 21:23) 聖書は罪の代価を死として述べています。したがって、罪人は実際に死という代償を支払わなければなりません。それゆえすべての罪人は死の権威の下で自由になれないのです。 罪は必ず神の裁きを受けます。その裁きの結果は永遠の地獄です。しかし、イエス・キリストは罪人の代わりに十字架で死にました。 十字架は、サタンの権威が破壊された場所です。 したがって神の裁きは終わり、すべての罪人はすでに裁かれたのです。十字架でサタンの死の権威が破られ、イエス・キリストは復活によって勝利しました。 「わたしの言葉を聞いてまたわたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持ち、審判に至らないで、死から命に移ったのである」(ヨハネの福音書 5:24) 私たちが認めようが否とうが、罪は霊的な背後勢力であるサタンに属しています。 「罪を犯す者はみな、悪魔に属する者である。悪魔は元から罪を犯した者である」(ヨハネの第一の手紙 3:8) これはすべての罪の権威がサタンにあることを意味し、罪を犯すということはサタンの権威の下にあることを意味します。私たちは罪から自由になるためには、罪の根源であるサタンの権威が破壊されなければなりません。しかし、既に創世記3章15節の神の救いの約束が十字架によって成就されました。 「神の子が現れたのは、悪魔のわざを破壊しようとされたためである」(ヨハネの第一の手紙 3:8) [GPNEWS]

「世の知恵では決して理解できない逆説、十字架!」

神の救いを約束されたユダヤ人たちはそれぞれ自分が望む救い主を心に待っていました。ローマの束縛から解放してくれる革命家、新しいイスラエルの国を建て回復させる政治家、貧しい人々に食べ物を与え世話をする社会活動家。しかし、神が用意された救い主は彼らの期待とは異なっていました。神はご自身の計画通りに救い主をこの地に送り、親しく救いを成し遂げました。唯一その方法だけが私たちを救うことができるからです。 救いを誤解する人々 「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。それは彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネの福音書 3:16)」 神の救いは逆説的な方法です。十字架の道は世の方法では理解できません。死が命となり、失敗が勝利となる逆説だからです。 十字架の秘密 「女の子孫はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記 3:15b)」, 「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。(マタイの福音書 10:39)」 救い主がかかとに攻撃を受けると同時に、蛇(サタン)の頭は砕かれます。救い主を殺すことは結果的にサタンを殺すことでした。死の力を持つサタンに打ち勝つ唯一の方法は死から生き返ることです。つまり、死が命とならなければ勝利できないのです。生きようとすれば死に、死のうとすれば生きる逆説、それゆえ十字架は秘密なのです。 世の誰もこの逆説的な神の救いの方法を知りませんでした。もしサタンがイエスの死が救いを成し遂げることだと知っていたならば、救い主であるイエスを十字架にかけることはなかったでしょう。 「この知恵は、この世の支配者たちの誰一人として知りませんでした。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったでしょう。(コリントの第一の手紙 2:8)」 [GPNEWS]

「救いのためにあなたができることはありません」

救いとは何ですか? 救い(救援)は漢字で「救う」(助ける、救う、援助する)と「援」(引く、取る、掴む)で構成されています。 救いの意味は、困難や危険に陥った人を救うこと、人類を死と苦しみと罪悪から救うことなどです。また、何かから救出され解放されること、罪から自由になることをも意味します。 このように、救いは自らを救うことではありません。救いには明確な主体があり、その主体がどこからかどこかへと救い出すのです。 つまり、救いは自分の意志ではなく、他者の意志によって成し遂げられます。 救う主体がいて初めて救われることが可能です。あなたに救いが必要であることは非常に明白ですが、救われるためにあなたができることはありません。 救いは神の約束です。 神は人に救いを約束されました。救いに関する神の計画は必要に応じて突然生じたものではありません。神の心の中にある意志に従ってその救いは準備されていました。 その約束は、キリスト(救い主)を通して私たちを罪と死から救うということです。誠実な神はその約束を守られました。ご自身の子を十字架につけて罪に陥った人類を救われました。 神がすでに成し遂げた救いを受け入れませんか? [GPNEWS]

「罪を犯す人は『悪魔』に属しています」

罪には形がありません。しかし、罪を見ればサタンを知ることができます。サタンの実体は正確に罪を通して現れます。 サタンは罪を道具にして神に反逆します。それゆえ、サタンに属する者は罪を犯さずにはいられず、罪を犯す者はすべてサタンに属しているのです。 「罪を犯す者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一 3:8a)」 あなたは誰に属していますか? 小さな湖に一匹の魚が悠々と泳いでいました。突然、美味しそうに見えるミミズがその魚の目の前でうごめきながら現れました。魚は冷静に何度も周囲を確認し、何も異常がないことを確認した後、ミミズを一口で飲み込みました。その時、突然強い引っ張る力が魚のえらを通じて感じられました。 見えなかった釣り針が魚をがっちりと捕えました。魚は全力で逃げ出そうとしましたが、強い釣り針は既にえらを貫いていました。もがけばもがくほど、釣り針はえらに深く食い込むばかりでした。 その釣り針は見えない糸に繋がっており、その糸の先には釣り竿があり、それは黒く煤けた釣り人の力強い手に握られていました。水中で自由に泳いでいた魚がミミズを飲み込んだ瞬間、その魚は釣り人の手中に入ったのです。 魚は悔しがりながら大声で叫びました。「私はミミズを食べただけなのに、どうしてこんなことをされるのか。私は釣り人と関係ない!」しかし、餌を食べた瞬間、その魚は釣り人に属するものとなったのです。このように、罪を犯す者は罪の元凶であるサタンに属するのです。 「罪を犯す者はすべて、不法を行っています。罪は不法です。彼が私たちの罪を取り除くために現れたことをあなたがたは知っています。彼には罪がありません。(ヨハネの手紙第一 3:4-5)」 「神の子が現れたのは、悪魔の仕業を滅ぼすためです。(ヨハネの手紙第一 3:8b)」[GPNEWS]

生まれ変わった人は世に打ち勝つ

「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋

イエスに命を見出すと福音の力が現れる

神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

アフガン戦争からの教訓…目的は手段を正当化することはできない

2021年に米軍が急遽撤退し、米国-アフガニスタン戦争は終結したが、米国メディアによるアフガニスタン追跡は依然として進行中である。米国のニューヨークタイムズは先月22日、「アフガニスタン戦争の隠された真実」というタイトルで、米国の補助者であったある戦争英雄を照らし出す、9000字に及ぶ長文の企画記事を通じてアフガン戦争での米国の役割を照らし出した。このメディアはこの記事を通じて、彼が実質的に「米国の怪物」であり、このような選択がタリバンに対抗して戦ったアフガン政府とこれに協力した米国に対して、皮肉にもアフガンの人々を背を向けさせたと主張した。 これに対し、キリスト教評論家ライアン・デニソン博士は、目的がどんなに善であっても手段と方法が不正であるならば、それを正当化することは難しいと述べ、この事例はキリスト教徒にとって重要な教訓を投げかけていると話した。デニソンフォーラムに掲載された彼のコラムを要約・紹介する。 アフガニスタン軍の将軍であり、カンダハールの元警察署長であるアブドゥル・ラジク・アチャクザイ(Abdul Raziq Achakzai)が2018年にタリバンによって殺害されたとき、多くのアメリカ人は彼の死がアフガニスタン戦争にどのような影響を与えるかを懸念した。汚職、殺人、暴力的な抑圧に関する噂と疑惑があったが、当時はテロとの戦いでアブドゥル・ラジクの役割が優先された。 しかし、その後数年間で、ラジクが権力を握っていた間に犯した残虐行為に関するより多くの事実が明らかになった。 最近、ニューヨークタイムズに掲載された記事で、アザム・アハメド(Azam Ahmed)とマシュー・エイキンス(Matthieu Aikins)記者は、5万件以上の手書きの陳情書をレビューし、2200件の失踪疑惑事件を詳細に調査し、ラジクによって犠牲になった人々の家族と数多くの会話を交わした。 彼らの報告書は、与野党のアメリカの指導者たちがアフガニスタン戦争にアプローチする方法に対して強い批判を提示し、「アメリカの怪物」としてラジクを呼んだことが妥当であったことを明確に示した。特に、アメリカの指導者たちの正当性に関連する彼らの研究結果は、今日の私たち全員に強力な警告を投げかけている。 「選択の余地がないと思った」 アブドゥル・ラジクは、パキスタン国境近くのアチャクザイ部族の一員として育った。子供の頃、彼の父親はヌルザイ部族によって殺害された。ヌルザイ部族はタリバンを支援することになる。その後、戦争中にタリバンは彼の叔父を殺害し、遺体を戦車のバレルに吊るした。その結果、2001年に米国のアフガン侵攻が始まったとき、ラジクの米国への忠誠心は明確になった。 2010年までに、ラジクは熾烈で有能な戦士としての名声を得て、タリバンに対して一貫して勝利を収めた数少ない戦士の一人として挙げられた。2011年にカンダハールの警察署長が暗殺されたとき、ラジクがその地位を引き継いだ。その頃には既に、殺人、汚職、拷問に関する噂と非難、そして彼に対する死刑執行に関する噂が広がり始めていた。 アフガニスタンでしばらくラジクと共に働いていた国務省のヘンリー・エンシャー(Henry Ensher)は、「時々ラジクに人権侵害の疑いについて尋ねたが、その答えを聞いたとき、『私たちが戦争犯罪に関与していないことを願う』と考えた」と説明した。彼は続けて「私たちは自分たちが何をしているかを知っていたが、選択の余地がないと思っていた」と語った。 アーメッドとエイキンス記者は、「タイム誌とインタビューしたほとんどのアメリカの指導者たちは、ラジクが反乱の中心地でタリバンを撃退できる唯一のパートナーと見なされていた」と付け加えた。 しかし、ラジクの方法が一時的には効果的だったかもしれないが、最終的には彼の方法が彼の支配下にあった多くの村や部族をアフガン政府とアメリカ占領軍に反対するように仕向ける大きな役割を果たした。 ラジクの部隊の一員に誘拐された兄を持つファズル・ラーマン(Fazul Rahman)は、「少なくとも最初は誰もタリバンを支持していなかった。しかし、アフガン政府が崩壊したとき、私は喜びのあまり通りを走り回った」と語った。 残念ながら、ラジクは米軍が「目的が手段を正当化する軍事的便宜主義の戦争を遂行するため」に力を与えた多数の軍閥、腐敗した政治家、犯罪者の一人に過ぎなかった。そしてその誘惑は、今日の私たち一人一人にも最も適切に適用される話である。 目的が手段を正当化できないとき アフガニスタン戦争で犯した過ちと同盟に対するこのようなアプローチの危険性を理解することは重要である。特に新たな紛争を国家議題に迅速に追加している状況ではなおさらだ。しかし、ほとんどの場合、私たちは地政学的レベルで実質的な変化をもたらす立場にはいない。しかし、それでもこの話から得られる重要な教訓がないというわけではない。 政治家たちは目的が手段を正当化できるというアプローチを受け入れているか、少なくともその誘惑を感じている。それは政治家たちが「どんな手を使ってでも勝たなければならない」と考えているからだ。つまり、「火には火をもって対抗しなければならない。私たちは彼らがやっていることをしなければならない。それが彼らが当選した方法だ。私たちもそうしなければ当選できない」と考えているからだ。 しかし、このようなアプローチが倫理的、精神的、現実的に何故間違っているのかを考えると、それは政治だけでなく、大義を追求するために些細に見える罪を受け入れたいという誘惑を感じる私たちの生活のあらゆる領域でも特に重要である。 神に「ノー」と言うことの代償 キリスト教徒として、目的が手段を正当化するという考え方をとるためには、道徳的にも霊的にも深刻な堕落が必要である。しかし、それはイエスを主と告白する者なら誰でも恐れるべきことである。 神が祝福できない道を歩みながら聖霊の声を押し殺して生きることは、精神的にも感情的にも容易ではない。聖書は静かにしているわけではない。神は一歩一歩進むたびに説得し、悔い改めるように呼びかけるだろう。そして一歩一歩進むたびに神に「ノー」と言わなければならないだろう。 それは可能だが、私たちそれぞれは信仰の仲間がそのような選択をした悲劇的な例を思い浮かべることができる。しかし、その程度まで神に心を閉ざすことの代償は甚大である。そしてそれはそうでなければならない。 良い父親は子供が崖の端に向かって走るのを見て黙っていることはない。しかし、どんなに良い理由があっても、罪を受け入れる時に、天の父がその罪を容認してくれることを期待することはできない。 アブドゥル・ラジクのような人々には、目的が手段を正当化する思考を簡単に見つけて非難することができる。しかし、それが私に近い場所にあり、私が追求する目的と関連しているときは、はるかに難しい。しかし、神は私たちにそのような選択肢を与えていない。 したがって、過程よりも目的自体を重視しようとする誘惑を感じるとき、天の父が両方を重要視し、神を栄光にする方法で成し遂げることができる使命を私たちに与えていることを忘れてはならない。[福音祈禱新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 ソースを記載して使用してください。>情報とお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTKコラム]キリストで十分なキリスト教(3):心理学に染まった教会、パート2

なぜ教会はそう急いで心理学を受け入れたのでしょうか。その理由は、概して心理学者が自分たちを科学者として描写しているからだ。 科学の時代である今日、学問の世界で確実に認められることで、心理学の真理が論争の余地のない学問であることを意味するからだ。 そうではないだろうか? 行動科学はどのくらい科学的だろう? 何十年もの間、ますます多くの人が心理学を受け入れながら心理学を支持する人々は、単に心理学が真の科学であると当然受け入れている。しかしそうではない。それは偽の科学であり、道徳的および精神的な問題に対処することなく行動の問題を説明し、診断し、治療するように設計された人間の最新の発明品の一つである。 心理学は、熱力学や有機化学などの科学的知識のような一貫したシステムではない。私たちが言う心理学とは、様々なあらゆる複雑な思想と理論を言うことであり、その中で、いくつかの理論は互いに矛盾している。心理学は、人間が心や精神的、情緒的変化の過程を効果的に扱う能力を立証しているわけでもない。したがって、心理学は科学として認めることはできない。 確かに、私が心理学を類似科学に分類することについて多くの人が反感を抱くでしょう。しかし心理学とはまさにそのようなものだ。わずか百年前に骨相学と呼ばれる変った一種の「行動科学」をめぐって一大議論があった。骨相学は、人格的特性が頭蓋骨の形状によって決定されると信じていた。読者もおそらく以前の骨相学図解を見たことがあるだろう。 骨相学図解とは、脳のどの領域が特定の感情や特性を決定するのかを知らせる説明が、頭の特定の部位ごとについている脳の地図だ。骨相学者は人々の頭蓋骨をたどって頭の湧き上がった部分の位置をもって、彼らが持っている問題を診断したりした。 もしそれ以来、行動科学が大きく発展したと思ったら、大人に、彼が出生前にどんな悩みをしたのかを再び思い出すことができるように、胎児のように枕を抱いて体を丸める姿勢を取ることがどれほど合理的なことなのか自問してほしい。もし私にそのような機会があれば、私は誰かに私の頭をコックコック刺してもらうように頼む! 現代の心理学者は多数の矛盾する理論に基づいて、何百ものカウンセリングモデルとカウンセリング技術を使用している。したがって、心理療法がまるで単一した統合的で一貫した科学であるかのように話すことは不可能だ。 しかし、現代の心理学の基礎は、初期のフロイドの人本主義に根ざしたいくつかの一般的なアイデアにまとめることができる。これらは多くのクリスチャンが聖書的真理で合成しようと努力するのと同じ考えでだ。 ∙人間の本性は根本的に良い。 ∙人々は自分の問題を解決する答えが自分の内面に入っている。 ・人の過去は、その人の態度と行動を理解し矯正できる鍵だ。 ・ある人の問題は、他の誰かがその人に加えた行動の結果だ。 ∙人間の問題は、本質的にどんな精神的または肉体的な状態とかかわらない純粋に心理的な問題であるかもしれない。 ∙心の奥深くにある問題は、心理療法を使用する専門カウンセラーによってのみ解決することができる。 ∙聖書と祈りと聖霊は、特定の種類の問題を解決するには不適切で過度に単純な解決策だ。 それらと違うけど似ている邪悪な理論が、心理学のタンクから色々な雑なのと教会に共に入ってきた。残念なことに、それらは人々を助けようとする教会に根強く衝撃的な悪影響を及ぼしや。多くの忠実なクリスチャンは、真剣に相談が何であり、何をするべきかが理解できなかった。 意外にも、教会が「行動科学」にこんなに心酔する前から心理療法が何であるかを最もよく知っている人々は、それが果たして科学かについて疑問を抱き始めた。1979年、タイム誌は「精神課治療」を受ける精神医学」という次の特集記事を載せた。 精神医学は今四面楚歌に陥ったようだ…。 多くの精神科医は、平凡で日常的な神経症患者(「世界のすべてを一人で心配している人」)を心理学者や人気のあるアマチュア心理療法士に任せたがる。 精神科医は、彼らの職業が専門用語、難読化、神秘化でいっぱいの現代錬金術を頻繁に使用しているけど、貴重な知識はほとんどないことを認めている。 いつもそうだったように、精神医学を最も辛く批判する人々は精神科医自身だ。自分の専攻分野について長い間最も露骨な批判を加えてきたトーマス・サスは、精神疾患のようなものは実際には存在せず、通常の生活の問題だけが存在するだけだと主張する。精神医学に反対するもう一人の精神科医であるポーラートリーは、精神不眠症などのいくつかの脳疾患の存在は喜んで認めるが、そのような病気は一般開業医や内科医が処方できる薬だけでも十分に治療できると言う。 主流に属する精神科医でさえ、精神医学が果たして正常と異常を区別できると確信できない。 この記事は研究センターの精神科医であり生化学者であるロス・バルデサリニの悲観的な見通しで終わりを結んでいる。 彼はこう言った。「私たちは近い将来には精神疾患の原因と治療法を見つけることができないだろう」 数年後、アリゾナ州フェニックスで心理療法をテーマにした史上最大規模の集まりだと宣伝されたあるセミナーで、世界の主要心理治療専門家たちが集まった。「心理療法の進化」と命名されたこのセミナーは、全世界から来た7000人の精神健康専門家たちを集めた。このセミナーは主催側で心理療法のウッドストックフェスティバルと名付けられた歴史上最大の心理療法セミナーだった。 カンファレンスに一つの真理が明らかに台頭した。 心理療法士の間でほとんど同意しなかった。彼らには統合された心理学的「科学」はなかった。ひたすら耳にさらされる破壊された神学と治療学だけだった。 ロサンゼルスの新聞はラングの言葉を引用した。「彼は、1世紀にわたる心理療法の歴史から生まれた人間関係についてのどんな根本的な洞察も考え出せないと述べた。「私は私たちがソクラテス、シェイクスピア、トルストイ、あるいは15歳の時のポロベルさえも上回ったとは思わない」と話した。 ラングはこう付け加えて言った。「私は精神医学はまったく科学ではないと思う。精神医学は知識と発展の体系を築くことができる化学や物理学のようなものではない。 このカンファレンスの主催者であるジェフリー・ジグは、米国だけでも、様々な理論が百程度はあると述べた。ところが彼の言葉によれば、その中の大部分は「ぼやけて消えてしまう運命に処している」。 心理学はその基礎となる無神論的な進化理論と同様に科学ではない。有神論的進化論と同様に「キリスト教心理学」は本質で矛盾した二つの思想体系を調和させようとする試みだ。現代心理学と聖書は、聖書の十分性という原理を真剣に毀損したり、完全に捨てなければ決して融合することはできない。 心理療法は良いビジネスにはなったけど、誰かの霊的な問題も解決できない。せいぜい心理療法は、行動を表面的に修正するために人間的な洞察力をたまに使用できるだけだ。心理療法は単に一時的な臨時的にすぎない一種の精神的矯正療法であるため、クリスチャンにも非クリスチャンにも同じように成功することも失敗することもある。 [福音祈禱新聞] ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレイストゥコリアコラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140910 GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを探しているアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師と、GTK協力の牧師と聖徒たちが貢献するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツです。 と条約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 ソースを記載して使用してください。>情報とお問い合わせ:gpnews@kakao.com