すべてのものは 光にさらされて, 明らかにされる

作品説明:モナ·ハトゥム、「異邦人の群れ(Corps Étranger)」、1995、映像設置物、ポンピドゥーセンター所蔵、フランス·パリ モナ·ハトゥム(Mona Hatoum)はレバノン生まれの英国人芸術家で、パレスチナ人の両親の間で育った。レバノン生まれだけどレバノン国籍を持たず、イスラム文化の下で成長したが、アラブの家父長制には同意できなかった。このような理由から1980年代末、彼女の初期作品はアラブ女性として尊重されなかった母親に対する憐憫が土台に敷かれている。そんなハトゥムの作品を世界舞台でデビューさせた作品が1995年の「異邦人の群れ」だ。 <異邦人の群れ>は一人がやっと入れる規模の円筒形設置物で内部に入ると、グロテスクで奇異な映像が上映されるが、まさに作家の体の内外を内視鏡で撮影した映像だ。観客は密閉された空間に入り、ハトゥムの体の外部から始まり、内部への道(消化、排便、生殖通路)に沿って彼女の体の内部をのぞき込む。これを通じて、ハトゥムは女性をそれ自体で眺めるのではなく、部分部分に分けて性的対象物に転落させた支配的で権力的な視線を批判しようとした。言い換えれば、円筒の中の映像は私たちの視線によって破られた一人の人格であり、いざ不便でなければならないのは気持ち悪い映像ではなく、歪曲されて暴力的な私たちの目線であることを指摘した。 ハトゥムの意図はこうだが、<異邦人の群れ>を見れば隠密に隠されていた罪に直面できる信仰の力を思い出す。事実、ハトゥムの身体内部を見て感じた不便さは、私たちの内面に隠された闇が明らかになる時も間違いなく訪ねてくる。直面しようとする勇気を無力化するこの恐れは「婚前性関係」の代わりに「速度違反」、「外道」の代わりに「浮気」と比喩するように、罪を縮小したりする。しかし聖書は明らかに「すべてのものは光にさらされて,明らかにされる」と教える。内面のいかなる汚れや闇、絶望があるとしても、イエス様の血で得た救いが予定されているためだ。復活の能力を信じる信仰があれば、あらわれたことを加減しない直面の力を得る。その過程で怖かった手術台が救援と復活の審判台に変わる光を経験することになる。そのために明らかになったのは何でも光だ。主は罪をうまく覆い隠す能力者ではなく、それを十分に赦す全能者だからだ。[福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

スペイン、静かな風景の裏に吹く性転換の風

地中海の明るい日差しが差し込むスペイン南部の港町、マラガ。1年のうち雨の日が50日にも満たないほど日差しが豊かで、冬が暖かい都市だ。宿舎から見下ろしたここトーヨー市場は、些細な物を売買しながら旅行客の目を引いている。マラガの午後は平穏極まりない。 しかし、何事もなかったかのように穏やかなスペインの風景の裏には同性愛、性転換の風が吹き荒れている。スペインは12月22日、クリスマスを3日後に控えて16歳以上の未成年者も医師診断なしに性転換を可能にした。スペイン下院が16歳以上であれば、医学的所見がなくても誰もが法的に性別を変えられるよう、国家身分証の性別変更手続きを簡素化させる法案を通過させたのだ。これまでは性転換者が法的な性別を直すためには性別違和感を経験しているなど、複数の医師の診断が必要だったが、これからはこのような条件がすべて必要なくなった。原案通りに上院を通過すれば「転換療法」が禁止され、LGBTを狙った攻撃も処罰できる。主がくださった地中海の日差しを受けるように、創造秩序の美しさを受けて享受するスペインに回復することを願う。 「私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブの手紙5:19~20) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

キリストの中で完全な教会(5)

「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

唯一無二で複製できない特別さ

神様が私を呼んでくださる時 ルネサンスの巨匠ダ·ヴィンチ<モナリザ>の新聞写真を30回繰り返したこの作品は、米国のポップアーティストアンディ·ウォーホル(AndyWarhol)のものだ。 ウォーホルは繰り返しを通じて大量生産システムに言及した。 一つ一つ、手作業で作った物は同じではなく差が出るものだが、機械で生産された物は外観や品質が全て同じだ。品物が大量に複製されるわけだ。歴史的にこのような大量複製システムに感激した時期があった。1920年代のソ連と1960年代末の西ドイツだ。 社会主義革命家たちは、ブルジョアが独占した芸術は、大量生産と複製システムを通じて民衆に戻すことができるという希望を夢見た。代表的なのが映画だ。 1960年代末、学生運動の真っ最中だった西ドイツでは、大衆に親しみのあるイメージを繰り返すポップアートがブルジョアの専有物だった美術を皆に返すことができると考えた。しかし、期待は直ちに挫折に変わった。ウォーホルは最初から美術を大衆に返すつもりはなかった。キャンベルスープ、マリリン·モンロー、モナリザなど、マスメディアが生産するイメージを何度も繰り返したウォーホルの作品は精巧で堅固な米国の生産システムに言及するだけで、批判はしなかった。また、ポップアートも他の絵画と同じように希少性があって神殿のような美術館で巨額の価値を誇る位置に上がった。 ポップアートの中でも最高値を誇るウォーホルの<30は1より優れている>は矛盾された。重要な一つが削除されたからだ。ダ·ヴィンチの<モナリザ>が持つオーラ(aura)だ。オーラとは、たった一つの原本だけが持つ力である。<モナリザ>を撮影した白黒写真の平凡さには感じられない、複製できない何かだ。私たちを見る神様の見解もこのようなものではないだろうか。多くの人の中の一つではなく、唯一無二で複製できない特別さで私たちに接してくださる。神様は自ら私を指名して名前を呼んで下さる。 多くの人の中で一人の身振りに過ぎない私を呼んであなたの花になるようになさるのだ。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]神様が私に天国になる時

”神様は天国に行く唯一の道では終わらない。天国が天国なのは神様がそこにいらっしゃるからだ。” 福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。 人々はしばしば人生の重要な瞬間を「神様が私の世界をひっくり返した日」と描写する。思いがけない経験と対話、または試練が自分自身と人生、人間関係、周辺世界を見る方式を根本的に変える。私の場合には大学2年生の時、神様が私が考えていた天国をひっくり返した。 私はキリスト教の家庭に生まれ、愛が溢れるキリスト教徒の両親に育った。その事件が起こった時にも大学生だった私は明らかなキリスト教徒だった。ほとんど毎日聖書を読み、祈りを抜けなかった。正統教会に熱心に出席して周りには成熟して主に似ようとするキリスト人の友人たちであふれた。甚だしくは私は高校生に福音を伝えて彼らをきりすとの弟子にする使役にまで関与していた。その頃、ある瞬間、ある事件が起きた。それを一つの文章で言えば、突然福音が全く新しい意味で、全く新しい色彩で、そして新しい強烈さと喜びで私を巻きつけた。 私を福音の中にさらに深く導くためには、神様が先に私に会わなければならなかった。その出会いは実に甘い対面であり、最も満足できる訓戒だった。私が会った文章は私を座っていたその場で身動きが取れなくしてその後も決して私を去らなかった。 キリストは神を見て吟味するより、他のことをより尊く思う罪人を許すために死ななかった。キリストがいない天国でも、いくらでも幸せになれる人は天国に入ることができないだろう。福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。(ジョン·パイパー、神様が福音だ、47)。 今の時代に向けた質問 福音は人々を神様に導く道だ。福音は私を神様に導く道だ。それは荒廃と恍惚感を同時に与える珍しい悟りだ。なんで荒廃してるのかって?福音に会う前まで私たちがどれほど間違っていたかを悟らせるためだ。恍惚感は?一度も足を踏み入れたことのない土地、一度も航海したことのない海に出会うようで、想像もできなかった素晴らしい食べ物を食べる喜びを与えるからだ。 神様は天国に行く唯一の道で終わらない。天国が天国であるのは神様がそこにいらっしゃるからだ。神様は立派な食事だ。荒々しく驚異的な海だ。畑に隠した宝であり、貴重な真珠である(マタイ13:44-46)。 ジョン·パイパーは全く忘れられない驚くべき質問で、神様自身がどれほど卓越したプレゼントなのかを強調する。 私たちの世代だけでなく、すべての世代を問わず重要な質問はこれだ。あなたが天国に行ったとしよう。病気もなく、望むすべての友人がそばにいて、毎日好きな食べ物を食べて、各種余暇活動にまた毎日目の前で繰り広げられる自然の美しさ、味わうことができるすべての肉体的快楽に人間関係の葛藤や自然災害のない天国、そこで今あなたが生きているとしよう。ところでただ一つ、キリストがそこにいなければ、それでもそこがあなたにとって天国なのか?依然としてあなたは満足できるだろうか?(ジョン·パイパー、神様は福音だ、15) あなたはどうか。 私はどうなのか?これは私にとって天国自体を揺るがした質問だった。私はキリストがいない天国でも満足できるだろうか。そうでなければ、永遠に渇望するほど天国を本当に価値のある対象にするのがキリストなら、私は今なぜこの地でその方をもっと知り、より多く享受するためにもっと努力しないのか。 誰が天国なのか。 「福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。」神様は何とおっしゃるのか。その方が御自分について、そして福音と天国について本当にそうおっしゃるのか。 使徒パウロは神様が福音の中で最も大きなプレゼントであることを知った。”しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(フィリピの信徒への手紙3:7-9)。 世界のすべてを凌駕する真の宝物は、その方を知ること、その方を得ること、そしてその方を持つことだ。 キリストはなぜ十字架で死んだのか。使徒ベドロは言う。 ”キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。”(ペトロの手紙一3:18)。その方は私たちがただ許され地獄の苦痛から解放されるためだけでなく、私たちが神を持つように苦難を受けて血を流しながら死んだ。 罪がもたらす最悪の結果は硫黄の火ではなく分離である(テサロニケ一1:9)。様々な理由で地獄は苦しくて惨めだろう。呪われた者たちも依然として神の臨在を経験するだろうが(黙示録14:10)、それは恩恵と喜びではなく恐ろしい怒りだ。彼らは決して神を享受することができないだろう。 しかし拘束された者たちは”私は神の祭壇へと、わが喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。”(詩編43:4)と歌う。 ”命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさが永遠にありますように。”(詩篇16:11)。 喜びと楽しさがただその方のそばまたは周囲にだけあるのではない。何よりもその方の中に喜びがある。その方は喜びそのものだ。楽しみそのものだ。その方の居られる所が楽園だ。私たちが愛して渇望する他のすべてが消えても、その方さえいらっしゃれば、そこは楽園だ。 キリストの中で私たちは今も部分的にその方の臨在を経験する。そうだ。私たちの中に残ってある罪とその結果がその方の臨在を妨害するけど神様が私たちの喜びになる時、私たちは今も真の喜びを味わうことができる。私たちは日常で今も快楽、永遠の快楽を味わう。そのために、詩編42編のような祈りを捧げることができる。”鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。”(詩42:1-2)。 救いや許し、治癒や供給、安心や和解のためではなく、ひたすら神様を渇望する。神様がくださる善良で完全な贈り物を渇望するわけでもない。 そのすべての贈り物より遥かに優れた贈り物、まさに神様、その方を渇望する。 新しい空と新しい地で天国 天国を待って熱望する時、私たちの中の多くの人がヨハネの黙示録21:4のような約束にしがみつく。”彼らの目からすべての涙を拭いてくれるので、二度と死がなく、悲しみも泣き叫ぶことも苦痛もないだろう。以前のものが全て消えてしまったためだ。”これ以上の涙も、これ以上の死も、これ以上の悲しみと泣き叫び、苦痛もない。私たちはこのようなすべての苦痛が消えた世の中が与える甘さ、だから影が全くない世の中を想像することができない。 しかし、天国はただ悪いことがないところと定義されない。天国はすべてを満足させるあり(presence)と定義されるだろう。神様が私たちのために天国になる時、3節は4節が含んでいる貴重な約束さえも隠してしまう。 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 … そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、(黙示録21:1,3) 罪と悲しみ、死のない世の中よりもっと良いものは何だろうか。神様と共にする世の中だ。そうだ。その方は私たちの涙を拭いてくれるだろう。そうだ。その方は私たちの傷を癒して病気を治療してくれるだろう。そうだ。その方はついにその恐ろしい敵、死をなくすだろう。そのすべての祝福が無限に大きいけど、神様を所有して神様の所有になることに比べれば、そのすべての祝福は海のそばの水たまりに過ぎないだろう。私たちが流すすべての涙を拭いてくれる神様が私たちの神様だ。すべての癌を治す神様が自分自身を私たちに、つまらない私たちにくださるだろう。墓を空けて死を転覆させることができる神様が私たちのそばで永遠に私たちを守るだろう。 神様が私のためにできるすべてのことに目がくらみ、神様その方自体が私にどんな意味なのかを忘れるミスをしないようにしよう。水たまりで遊ぶのに夢中になって広大な海を逃す愚かな人になってはならない。神様を中心に置かないいかなる天国にも満足してはならない。 [福音祈祷新聞] |マーシャル·シーガル(MarshallSegal)||マーシャル·シーガルは作家であり、desiringGod.orgの責任編集者だ。 Bethlehem College & Seminaryを卒業し、韓国語で訳された「まだ結婚していないあなたへ」の著者である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]ジョン·パイパー_もっと良い天のお父さん。

イエス様は’あなたにお父さんがいらっしゃる’という激励をおっしゃっています。’君に天の父がいらっしゃる’という次元を越えておっしゃっています。’あなたに完璧な父親がいて、その方は悪い方ではない’とイエス様は対比させます。神様は悪い方ではありませんが、すべての父親は悪いと。もし最高の父をもうけたなら、これから良いことがあるでしょうが、神様はその良い父より1万倍も良い父だということです。実は私は詳しく調べてみて、とても小さな違いがあると言いたい誘惑を受けます。ここで言い間違えたらダメなんですが。これを深く考えてみませんでした。良いお父さんと悪いお父さんの違いがこれくらいなら、神様と良いお父さんの差は無限です。いわばそうだということです。悪い父と希望する父の間には大きな差がありますが、その差は神様と良い父の間の差と比べてみたらとても小さいです。神様の父性に対する理解を皆さんの父に対する経験に照らして制限しないでください。皆さんのお父さんがどんなに良くても悪くても関係なくです。[福音祈祷新聞] ジョン·パイパー(JohnPiper)|ジョン·パイパーはdesiringGod.orgの創立者であり、Bethlehem College&Seminaryの総長として33年間ミネソタ州にあるBethlehem Baptist Churchの担任牧師として仕えた。代表作に’神様を喜びなさい’があり、最近著述した’私がパウロを愛する30個の理由’の他に50冊余りの本を著した。 この映像は改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org