[イアチムコラム] 十字架で死んでイエス様のように愛しなさい

神様は私たちに、イエス様のように愛するようにと言います。どうすればイエス様のように愛することができるでしょうか?可能ですか? しかし、実際にそれほど簡単なものはありません。本当に神様に会ってみたらそうです。それが難しいと思う理由は、今まで私たちがイエス様を知らなかったからです。間違って信じたし、イエス様となんの関係がなかったからです。 イエス様に会ってみると、イエス様のように愛することほど簡単なことはありません。本当です。私たちは、どうしてそんなに愛することができるのかと言います。努力しても駄目だと言います。教会で聖徒に使役をさせるには、あらゆる機嫌を取らなければならず、牧師たちが祈りも強くしなければならないのではないですか? ヨハネ福音書(12:24、13:34~35)の言葉を聞いていると、私の心に天の栄光が臨みました。イエスは十字架を通じて私たちを愛しています。十字架を通過しなかった愛はありません。そんな愛があるなら違法です。意味がありません。十字架を通過しない愛は、自分の義が残ります。子供を愛するとき、これまでどれくらい苦労しましたか?骨が傷んでいます。財政も全部払われました。後で分かったことですが、子供が怪物でした。 イエス様のように愛しなさいという言葉は十字架で死んで愛しなさいということです。愛を先に話したのではありません。先に十字架で死ねということです。そして、愛せよということです。十字架で死ぬほど驚くべき恩恵が臨むことがどこにありますか?信仰の観点から、そのように簡単で明快で強力で、嬉しく、能力があり、新しい希望が臨むことがどこにありますか?私にはとても簡単で強力です。 十字架で死んでから子供を見ると変わります。愛になります。皆さんを見ても良く見えます。皆さんの信仰の大きさが千差万別なのにそうです。とても神秘的です。虫のような、罪人の中で怪獣のような人生だからです。以前は耐えようとしたので骨が傷みました。信仰が弱い人までは大目に見てくれます。ところが、仲間の中に悪い人がいると愛せません。その人をスプーンですくって出してほしいとさえ思いました。 十字架で死なないからです。十字架で死ぬと、すくって出す気持ちがなくなります。心が揺れ、善悪に敏感な理由は、先に愛をしようとしたからでした。自分の力で家と城を建てようとしたからです。違法です。神様の力でしなかったことであり、神様の言葉に従わなかったことでした。 愛するということは、十字架で死んで子供を見つめることです。十字架で死んでからビジネスをすることです。十字架で死んで共同体にいるのです。十字架で死んで使役するのです。十字架で死んで牧師を見ることです。十字架で死んで夫婦が見つめ合うのです。 十字架で自分が死んだので、神様が立てるものが何なのか注目することです。神様が立てるということが実際になるということは、神様がしなければならないという信仰が私たちの中で歴史することです。その恵みが深く臨むことを祝福します。このようなことが起こると、どんな驚くべきことが起こるのでしょうか? 空しいことだ。朝早く起き、夜遅く休み。苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから(詩127:2) 睡眠をとります。頭をつけたらすぐいびきをかいて、横になってすぐに眠るということは、疲れていてもそうですが健康が悪いということです。神様が愛すれば眠りをくれるという話を見れば、眠りがプレゼントです。むなしく思えませんか?睡眠をくださるというのはどういう意味でしょうか? 「目上の人の言うことをよく聞くと、寝ていても餅ができる」ということわざと同じ言葉です。居眠りもせず、寝ずに働く神様の贈り物があるという意味です。牧師の言うことをよく聞くと、寝ていてもチキンができるということをトーブ円形学校の子供たちは知っています。使役チームがお祝いの歌を歌えば、良い日程ができるということを知っています。夫が妻の言うことをよく聞くと、寝ていても小遣いが上がります。 神様の言うことをよく聞くということは、自分が死んで神様だけが見えることです。神様が何かをなさるということは、寝ていても餅ができることです。愛する者たちに眠りを与えるという意味はそういう意味です。働いている神様について行きます。神様と共にする栄光を経験することを願います。それで私たちの情熱と願いではなく、神様を願うと望む信仰の渦が起きることを祝福します。餅がどんな内容なのか3節から5節まで出てきます。 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは勇士の手にある矢のようだ。幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。(詩127:3~5) 子供に対して生物学的観点で祝福する言葉ではありません。生物学的関係で形成された子供を意味する言葉ではありません。十字架で私が死にました。心配事が入ってくる時に死に、希望と抱負が死に、神様だけが見える時に神様が餅をくださいます。私にお餅をくださいます。神様には私たちに与えられるお餅があるという意味です。それが私たちに向けた神様の計画と意味と考えです。神様は私たちが寝ている間にも餅ができるようにします。 私からのみできる代表的な象徴は子供です。私の娘は私たち夫婦からのみ出ています。婿は私からは出ません。血縁関係は私からだけ出ます。すなわち、生物学的観点の子供ではなく、私に向けた神様の固有の志が別にあるという意味です。神様の固有の計画があり、神様が立てればそれが明らかになるということです。それを見逃すなということです。 神様が与えたいものを受け取る信仰の人があまりいないようです。次善をもらうか、それとも次次善をもらうか、いやそれでもなくくず程度をもらうようです。神様が最初から私たちに与えたい神様の計画が私たちの人生で現れるのは、呪いの産物である苦労が作るのではなく、神様が私たちを立てる時に現れることです。 神様は私たちを通じてのみ成し遂げたいことが多いです。皆さん、何が叶いましたか?神様が私を通じて成し遂げたいことがありますが、果たして何が叶いましたか? それがこれです! と言えるその証人らしさがあちこちで響き渡ることを祝福します。それで先に苦労をするのではなく、先に努力をするのではなく、先に悲しい努力をするのではなく、私たちの心の考えとエネルギーを神様に上げ、私たちの心ではだめだから一千回死んででも、その十字架の死によって必ず神様が立てることを見てやるという信仰を使うことです。 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(マタイによる福音書6:28) 新約に出てくるこの「労苦」という単語もヘラ語で見ると「コポス」です。「苦痛と傷を伴う熱心」です。 旧約と同じ意味です。立てる神様の手を経験することを願うと祈ることを願います。 このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。(コロサイの信徒への手紙1:27) 私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。(コリントの信徒への手紙一15:58) 神の心が私たちに入ってくるのは神秘です。神様の心が入ってくると、実際にそれがわかる証拠があります。その苦労が証拠です。「皆さん、使役をする時は大変ですか?大変じゃないですか?」普通は大変だと言います。難しいと言います。皆さんが思っている以上に私にも困難が多いです。心理的な困難、霊的な困難、貧しい人を眺める困難。 ところが、この使役に神様の心が入ってくると、ほんきになります。自分が自ら神の人であることをわかります。神様の未恵を受けたことをわかります。使役に本気になるからです。窓ガラス一つを拭いても本気でやります。本当です。交友たちに会う時も以前とは違ってきます。ある交友を抜き出したい気持ちがなくなり、神様の哀れと愛が臨むことを願う真心が苦労の中でもエネルギーを奪われず、むしろ力が補充されることを経験します。一人一人にそのような未恵が伴わなければなりません。 私たちはキリストの体だから、イエスと共に死に、藩祭壇で毎日死ななければなりません。神様の立てることを眺める神様の人ならば、この真心がすべてになるまで部分的に会うすべての使役と人生の中で働く神様を経験すると信じます。 皆さんの家族の中で誰かが過ちを犯すと心がずれますが、結局許します。なぜ間違ったのかと教えることはできますが、縁を切るとはしません。教会にその真心が入ってこなければなりません。キリストの中にいるなら、その真心は無駄ではありません。一緒に暮らし、一緒に喜ぶその栄光が教会の中でいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 エピローグ 私たちは生きていくとき、労苦を手段として使います。成就するために苦労を使います。克服して防ぐ手段として使います。その労苦に比例して実を結ぶと成功だと思い、そうでないと怒ります。しかし、聖書は、労苦は手段ではなく、堕落の結果であり、呪いの産物であると述べています。それなら、苦労が先ではありません。エデンから追い出された間違いを繰り返してはいけません。神様のところに戻らなければなりません。十字架を通して! 一千回祭の祭祀を通じて! 神様のもとに帰って、神様がなさることを見て喜ぶ驚くべき恩恵がいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

神様の手に自分を任せた絶対信仰の人「ダビデ」

ただ! 絶対!全部の福音!(11) ダビデはサウルが失敗した王国を受け継いだ。そして、狂った王の嫉妬でその王が死ぬまでずっと追跡され、血のにじむ荒野の逃亡者として生きた。牧童出身の逃亡者に年齢まで幼い、指導者の資格とはかけ離れた人だった。政治的な経験や軍人として経験がなく、国を経営できる人間的な背景、条件や資格が全くなかった人だった。 ダビデの生涯を語ることができる特徴の一つがあるとすれば、それは絶対信頼だった。 全く資格がなかった人 末の息子に生まれてあまり大事にされずに、両親と兄弟たちにもそっぽを向かれていた「大したことのない少年」、「ダビデ」。荒野で数匹の羊を飼っていたベツレヘムの牧童だった彼の人生は、ロマンチックな状況ではなかった。熊とライオンが出没する死の危険があるところに末っ子を置くのが家の雰囲気だった。彼の子供時代はベツレヘムの荒野で天地に一人だったが、憂鬱だったり悪いことに陥らなかった。自分だけを見ている子羊たちの世話をしながら、牧童として神様が彼の人生にどれほど絶対的な方なのか、詩編23編を通じて霊的な歌を美しく表現した。 主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩23:1) ダビデの人生に絶対的な一人、主 私の羊飼いであるエホバは、羊にとって「ただ」であり、「絶対」であった。 「絶対に!ただ!あの方しか! そして、その方で十分だった」 詩篇23編は、彼の信仰の告白だった。羊は自ら自分を保護したり、自ら人生を開拓する能力がない。牧童がなければ全く存在できない動物が羊だ。羊の世話をする小さな牧童として暮らしながら、ダビデは頼ることが何もない孤独な荒野で神を牧者と表現した。 詩編23編の歌を歌えるだろうか? このような歌を歌う信仰を「絶対信仰」という。 私の羊飼いの主なら十分だった ダビデは転んだ時さえ他の道を探さなかった。殴られても母親の胸に駆けつける子供のように、犯罪して倒れた後も彼がただ捕まえる神様しかいなかった。神様の許ししかなかった。 「主の手に渡る方がもっと残酷であっても、人の手に私を任せないでください。 神様、私を殴っても神様の手に私を任せます。私は神様が去ったら生きていけません。」 彼は生涯彼と共にする主の栄光を見た。神様なら十分だった。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

アブラハムの最後のテスト… イサク事件の意味

ただ! 絶対! すべての福音! (10) アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。( ローマ 4:23~25) 十字架の福音は、その方が私のために死んだという言葉を90%信じてはならず、その方の死は私のための死であり、私の死と同じだということを信じろということだ。これはこのような事実に対する確信が私にとって「ただ!絶対!全部!」にならなければならないことを意味する。ところが私たちは知識的には同意しながら生きる姿は全く十字架の死と何の関係もなく生き、依然として自身が主体になって「ただ私、私、私」、「ただ、絶対、全ては私だ」このような人生を変えていない。そのように神学の知識だけが積もり続け、体験は増え続けて悩みはするが、それは常に自分を全て出して任せた対象は「私」であり「真理」ではなかった。 アブラハムの一生で「ひたすら信仰」を除いては話すことができない。「信仰が弱くならず、絶対に信じた」と聖書は述べている。もちろん、途中で揺れる時もあった。サラも揺れ、アブラハムも揺れ、ハガルという小間使いでイスマエルを産んだりもした。だが、彼が神を信じる信仰が全てだったことを表わした最後の試験があった。アブラハムに残された信仰がどんな信仰だったのかを歴史が注目するように神様が刻んだ美しい事件記録がある。 アブラハムがイサクを捧げた事件を紹介した創世記22章は、一人の人間の内面を表現するのにこれ以上の表現がないと考えられる言葉だ。イサクはアブラハムが100歳で産んだ息子だった。約束の息子であるイサクは、自分の存在の未来がかかっていた。ところが、イサクを与えた神様が目に入れても痛くない子供を何の説明もなしに「君の愛する一人息子のイサクを私が指示する地、モーリア山で私に供え物として捧げろ」とおっしゃる。常識と経験では受け入れがたいことだった。これはすべてを超える試験だった。神様を絶対に信じて絶対に信頼する信仰でなければ、死んでも到達できない試験だった。 その時、神様が試験に応じるアブラハムの中心で全てになった信仰を見られた。子供を殺そうと刀を持つアブラハムにこのようにおっしゃった。 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」(創22:12) アブラハムのこの信仰がただであり、全てであり、絶対だったのだ。歴史に現れた神様が感動した場面だ。愛する一人息子を惜しまなかったアブラハムの信仰だった。 神様はアブラハムの従順に感激し、イサクを捧げたその場を聖殿の場所に決定される。 後にエルサレムの聖殿がそこに建てられる。神様の心がそのまま注がれている所。 神様が感動を受けた所。神様が自分の「全て」になって「ただ」になって「絶対」になるよう神様が呼び出した信仰の人、私たちが今日のアブラハムにならなければならない。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

[イアスコラム] 信仰は心を神様にささげることです。

神様のみことばを守らなければならないという負担感ではなく、私の中におられる主として、一歩一歩、信仰の歩みを歩き出して、みことばが自分の人生に血と肉になり、自分の道を導いて、みことばを守る人々に神様の恵みと平和が臨むと言いました。神様を愛する道がはっきりと見えてほしいと願う心霊になりますように祝福します。 まず、日常で私たちの心が僕になっていることを見なければなりません。日常で私たちの心が結ばれているところがあります。しかし、なぜ縛られていて、それをどのように解放するのかを知る必要があります。私たちは縛られていることに引き付けられます。これを解いてこそ主に従うことができるからです。 信仰を複雑に考えるのではなく、単に点検してください。心を神様にささげることが信仰です。「クレド」は心臓を差し上げる、心を差し上げるという意味です。命をささげるのは心をささげることです。 だから信仰があるかどうかは測定できます。縛られているものに心を使うのか、天に向かって心を使うのかがわかります。 心が神様にいる人の心は、周囲の環境に心を奪われません。環境に気をつけません。内面が主を眺める栄光があり、他の所に心を奪われない信仰の大きな響きがいっぱいであることを祝福します。 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤの信徒への手紙 6:7) 豆を植えたら豆が出来るし、小豆を植えたら小豆が出来ます。私たちは信仰を植えられなければなりません。その人生は自分の力で生きる人生では有ません。自分で生きる人生は元気なように見えます。自立心、独立心! 人生の力のようで、何か成熟しているようです。その「自ら」は社会通念上自然さと言えます。 この間、駐車チームと出かけました。とても嬉しかったです。みことば分かち合いも5時間しました。日常の考えを分かち合いました。なぜ私たちは日常で自分の気持ち、苛立ちに勝つことができないのですか?なぜ日常で真理で結論を出せないのでしょうか?なぜ主がくださる意味ではなく、気分が自分を左右するのでしょうか。 単に結論を出した。自分の気持ちが信仰よりも大きいからです。心が傷つくその内容が真理より大きいからです。それでは、真理よりも大きくなった自分の考え、心、心の中をどう扱うべきでしょうか? 「自分で」という言葉の意味を悟らなければなりません。「自然」と言えばいいイメージがあります。40代後半から60代半ばの男性11人が一緒に行って写真を400枚余り撮りました。「自然」と言えば自然だという良いイメージがあります。自然なことを否定してはいけないと言います。 しかし、聖書から見ればそうではありません。自然は自ら生まれたものです。つまり自然は、自力でそうなったのです。しかし、聖書は自らなることはありません。人間も自力で生きようとして追い出されました。 社会的に、言語的に自然という言葉は良いイメージで深く根付いていましたが、実際には決してそうではありません。写真を撮るときに自然にポーズを取ってみると言えばうまくいかなかったのですが後で分かりました。 「私たちは信仰人なので自然でいたらダメなのだ!」放置しておくのは自然ではありません。ただ置くのは自然なことではありません。神様の人は神様の手の下、神様の雰囲気の中になければなりません。神様が働かれるその力を与えられなければなりません。自然なことは良いことではありません。 「自ら」は原語で見ると「プラナオ」です。円形の動詞は、信仰と伝統から抜け出すという意味です。迷う、だまされる、裸だったという意味もあります。 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります(ガラテヤの信徒への手紙6:8) 主の心が宿り、主に従う人生には、天の喜び、永遠の人生、より豊かになる働きがあります。肉体のために植える者は肉体から腐敗することを求めることになると言われています。私たちには自分で生きる工夫があります。自分で考えるものがあります。このように生きなければならない、それがより適切で、これがより良いという考えがあります。 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。」(出エジプト記33:3-4) 神様がモーセを召されて教えてあげたかったのです。だからシナイ山で十戒を与えます。その時、山の下には次の歩みに悩む人々がいました。モーセが自分たちを険しい荒野に導き,死なせようとすると言いました。 山に行ったモーセは来ないので、アロンを捕まえて次のステップを話します。そのような過程で金の偶像を作ります。その光景を見てモーセが話します。神様があなたたちを出エジプトさせたのは、神様のご意志と恵みであり、神様の許しによってなされたものだと言います。 神様が許され、神様が約束を守るでしょうが、神様は同行しないと言われます。乳と蜂蜜が流れるカナンの地、そこまでは行くようにするけど、神様は一緒に行かないと言われます。怖い話です。 ところが、このことが実際の私たちの生活でそのまま起こっています。神様が許されたことだからといって、神様が全て同行されません。神様が教会を許されたと、教会を建てる過程に神様がすべて同行されないことができることを知っています。それで、私は震えと恐れで私を兼ね備えて思い直します。 生かして下さいと、恵みを求めて祈ります。皆さんも一緒に来て一緒に行ってほしいです。 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、(出エジプト記32:23) モーセはシナイ山で神と共にいます。 しかし、その時、人々は私たちのために私たちを導く神を作ろと言います。人々の不快な感情が明らかになります。「このモーセ」という言葉から民の不快な感情をそのまま見ることができます。私たちのために言うのはどういう意味ですか? 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1:17) 信仰から信仰に至るのが福音です。信仰で出発した私たちの次の歩みも信仰です。神様に心をささげたその道からまたまた神様に心をささげる別の道に行くというのです。それを見て、義人は信仰によって生きるということです。 イスラエルの人々は荒野で大変でした。苦労したそうです。それで時にはエジプトにいる時が楽だと言います。それでも、彼らは神の超自然的な働きで信仰の一歩を踏み出しました。ところで荒野に来てみるとダメでした。カナンの土地は見えません。導かれたモーセは神に会うと言って消えてしまいました。そして来ない。それで次のステップが心配になりました。 皆さんもイエス様を眺めてイエス様を信じると言います。ところがある日、皆さんの人生が詰まってしまいました。次の足を運ぶ道がないようです。信仰は何ですか? 心をイエス様にささげることです。心が嵐の中にあるようになれば、イエス様を呼んだとしても、イエス様はあなた方の信仰がどこにあるのかと言われます。イスラエルの人々は私たちのために私たちを導いた神を作ろと言います。信仰から信仰に至る道を知らないということであり、この地で何かならなければならないということです。 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、(出エジプト記32:25) 横柄だと大変です。自分のためと言って、自分が横柄に振る舞うか心配になります。信仰の歩みの邪魔になるのが横柄です。信仰を話しながら横柄で、そのように勧めるのではないか振り返らなければなりません。 実際、皆さんは子どもたちが横柄するようにお勧めします。信仰をよけて通りながら信仰のように話します。生命を語るようですが、教会に分裂を生み出すのも同じ話です。横柄することを見なければなりません。悔い改めなければなりません。 モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」(出エジプト記 32: 29) アマレクを燼滅するように言われました。カナン七族を滅ぼすように言われました。私たちは心に抱いているものがあります。絶滅しないと、むしろそれが私たちを殺します。29節 みことばを見れば、滅びたそのすべての内容が献身だと言います。 奉仕そのものが献身ではありません。献身した人のその実で奉仕が出てくるのです。献身は埋めることです。献身はアマレクを滅ぼすことです。私たちの心の中で暗闇を滅ぼすことが献身です。一生懸命奉仕することが献身ではありません。心に満ちているそれが絶滅する献身なしに、ただ奉仕すれば問題が大きくなります。 なぜ心に心配があり、不安があるのですか? 献身しなかったからです。心の中にあるアマレクを絶滅しなかったからです。カナンの七家族を滅ぼさなかったからです。 献身したら愛は自然に出来ます。奉仕は自然に出来ます。一緒に合力して最善を成します。奉仕の量と質は問題ではありません。アマレクとカナンの七つの族を滅ぼさなかったので、献身ができなかったのです。献身がある時、自然に生きるのではなく、神様のみことばを食べ、真理で結論を結ぶ神様の人として生きていきます。 [福音祈りの新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音の祈りの新聞。>情報とお問い合わせ:press@gpnews.org

創作クリスマスキャロル「雪が降ってる」

イエス·キリストの誕生を称えるクリスマスの嬉しい知らせを伝えるための創作クリスマスキャロル「雪が降る(Snow is falling down)」がソプラノのチン·ユンヒ、テナーのリュ·ジョンピルによって最近発表された。 この曲は作曲家であり編曲家であるチャン·ミンホ教授の曲に声楽家で劇作家、作詞家であるイ·スンウォンの歌詞で世の中のすべての痛みと悩み、心配を白い目で覆ってあげたい気持ちを込めた。 ロシアのレニングラード州国立交響楽団の演奏で曲の完成度を高め、グラミー賞クラシック部門最高技術賞を受賞したサウンドミラーコリアのファン·ビョンジュン代表がマスタリングを担当し、多くのキリスト教音楽アルバムのプロデューサーとして活動したチャ·ヨンウン代表(ナヌミュージック)が製作を担当した。 音楽学博士でグリ聖光教会聖歌隊指揮者であるチャン·ミンホ教授(サンミョン大学ニューメディア音楽学科)は「この曲はイザヤ1章18節の『 お前たちの罪が 緋のようでも、雪のように白くなることができる』という聖書の言葉を黙想して、戦争と暴力、不義の中で苦しむ人々を慰め祝福と平和の便りを伝えるクリスマスプレゼントになることを願う」と曲を紹介した。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[TGCコラム] サタンに何かあったの?

先日、私はイエス様の山上の説教を説教しながら、イエス様のように永遠の審判を扱った。主の口から出た言葉である以上、私はいくら不便な真理だとしても決してそっと避けながら聖徒たちにお世辞を言わない。考えてみよう、イエス様が本当に滅亡に導く広い道に関する警告と神様と財物に同時に仕えることはできないという内容、そして怒りと情欲が地獄の火に至らしめるという事実を伝えることが重要だと考えたなら、その方に従う人として、またその方の言葉を宣布する人として、私たちには他の選択の余地があるだろうか? 聖書にありのままそのメッセージを伝えること以外にない。それが現代人の耳にいくら恐ろしくてもだ。 礼拝が終わった後、ある女性が私に近づいてきて、「これまで多くの教会に通ったけど地獄について話す牧師を初めて見た」と話した。 彼女はその重要なメッセージを大声で宣言してくれてありがとうと言った。しかし、彼女は地獄という言葉をほとんどささやくように言った。まるで呪いの単語として乱用される地獄がその力を失ったように、しかし同時に依然として秘密であるかのようにだ。しかし、信実な信者たちは、その単語が依然として正統キリスト教の一部だが、それでも私たちが声を出して言ってはならない誰かの目的地であることを知っている。 このすべての状況が私の好奇心を呼び起こした。いや、審判を言及せずにどうやってイエスを伝えるのだろうか?イエス様のその多様な比喩をどのように説明するというのか?滅亡に対するイエスの継続的かつ一貫した警告をどのように処理できるのだろうか?これで終わりではない。イエスは確かに二者択一との対照を強調した。たとえあなたがパウロと他の使徒の教理にそれほど気を使わない、教団を越えた急進キリスト教徒(red-letter Christian)だとしても、滅亡と消える魂を警告したイエス様の肉声(the redletters)と地獄を象徴する死なない虫と消えない火のイメージまで無視することはできない。 グッバイ、サタン 地獄がないという事実と最も密接な関連を持つのは消えるサタンだ。 ますます多くの教会で神様と神様の民に対抗して戦争を繰り広げるサタンや鬼、勢力と情事に関する話を聞くのが難しくなっている。文字通りサタンが消えた。そうだ。恩師主義教会や五旬節教会にはたびたび現れるが、ますます裕福になり教育水準が高くなる福音主義教派では事情が違う。サタンという告訴者に関するイエス様と使徒たちの言葉の前で人々は震える。 悪魔がすべての問題の背後から覗いており、サタンの影響力が聖書の証言を歪曲する方式で過度に強調される他の信仰伝統に蔓延した一種の誇張を避けたがる牧師たちがいることを私は知っている。だから節制された方式で行った方がむしろましだということだ。ところが、このようなアプローチには唯一の障害物がある。それがまさに聖書だ。聖書だけでなく教会史も同じだ。そして非西欧地域にいるすべての兄弟姉妹も同じだ。 だから基本的に聖書がこのような態度に反対しており、キリスト教歴史の中のすべての信者もそうであり、また西欧キリスト教を除く他のすべての地域の信者も同じだ。 私たちは今、かなり変わっている。にもかかわらず、この問題に関する我々の沈黙はかなり精巧だと思われている。 サタンが消えて生じた様々な余波 問題はこれだ。サタンについて説教しなければ、聖書が証言する罪と救いではない。せいぜい一般的な善悪に区分される心理治療的で世俗的な範囲を越えることはできない。 地獄について全く言及しなければ、あなたが話す福音の中には緊迫感があり得ない。あなたが伝える福音は、単に人々が聞きやすくて、より満足そうな生き方にすぎない。これがまさにインスタグラムインフルエンサーから仏教徒に至るまで、皆がすることだ。 あなたが悪魔のことを全く話さないなら、当然天使も言及しないだろう。これは何を意味するのか?聖書が実在だと言う霊の世界を、すなわち見えない領域を本当だと思わないことを意味する。あなたは、御言葉から外れた宇宙観を持つ貧弱な想像力の持ち主である。しかし、古代教会は明らかに聖書の主張を確証した。そして今、世界の教会はそれに参加しています。 さらに天使、幽霊、サタン、地獄に対する貧弱な見方は、私たちが罪と戦う時、神様を正しく礼拝しようとする時、そして神を知り愛する心の純潔を追求する時、私たちの弱めになる。サタンの喪失はキリスト教徒の人生の脈絡が変わることを意味し、霊的戦場がいつのまにか平和な慰労と成就の現場に変形したことを示している。 永遠という持分の重さを減らす キリスト教が言う永遠がかかった問題の重要性を低くする時に伴う必然的な結果は、結局些細な問題がより重要になるということだ。イエス様と使徒たちが伝えた生死の緊急性を受け入れない時、どんな結果が生じるだろうか?生死の緊急性を他の問題に挿入することで、世の中の問題を実際より大きく見せかける。 これが西洋の教会で目撃する現実だ。私たちが宇宙的観点を失い「この世」と関連した人生の側面だけを強調する時、未来の審判という厳重な現実を軽視する時、私たちは結局永遠の正義に対する希望さえ失うことになる。 これは結局、地上の正義だけが私たちに残った全てだと認めることになるのだ。したがって、この地で完全な正義を達成しない限り、私たちは決して正義が究極的に実現する現実に出会うことはできないという意味だ。 「この世」しか残っていない人々に残された結果は何か? この世で追求する各種正義追求は事実上生死の闘争になる。 本当に深い関心を持たなければならない何かを探す過程で戦わなければならない本当の戦争の代わりに、私たちは休まず続く小さな戦闘に魅了される。偉大なドラマを逃した人の目には、この世が作る小さな世俗的ドラマが重要に見える。 イエス様のように教えているのか? 私は今日の人々にサタン、地獄、天使、悪魔に対する説教がどのように近づくか深く悩むことなく、生半可な説教を勧めない。状況化は重要だ。そのため、神様は私たちに言葉を解釈しろと説教者をくださった。ただ言葉は声を出して読むことで終わらない。いざ必要なのは聖書が教える内容を注意深く説明し、聖書が書かれた当時と今の文化的距離を認めながら、人々が世の中を違う方式で見るよう招待することだ。 しかし、いくら細心に配慮するとしても変な点を全部なくすことはできない。だからといって、現代人の耳に奇妙に聞こえるすべての部分をなくすために努力してはならない。特異な点は目につくものだ。 私たちがイエス様を見習ってその方を伝えるイエス様の宣言者になれば、イエスがおっしゃったすべてのこと、ひいては今日の私たちを不便にさせる部分までも苦心しなければならない。それは独善で神様の恩恵と慈悲を拡張できない人や巧妙さで審判に対する警告を笑う人に向けたイエス様の二重的な攻撃も含まれている。 正統的で健全な信仰告白を固守する教会も、いくらでも聖書が強調する教えに重きを置かないことができる。正しい教理に従いながらも、それにともなう適当な厳重さを持ってその教理をまともに扱わないことが可能だ。 今日、サタンが信者たちの感覚を鈍らせるために使う最も簡単な方法の一つが、牧師たちがイエス様のように話さなくても、まるでイエス様に関する真の教えを伝えるように説教させることだ。 [福音祈祷新聞] 원제 : Whatever Happened to Satan? トレビンワックスTrevin Wax | Life Way Christian Resourcesの神学とコミュニケーション学科の副学長であり、Wheaton Collegeの外来教授であり、The Gospel Projectの編集者である。 「ディス·イズ·アワー·タイム」、「歪んだ福音」、「私たちの時代の6つの偶像」、「Gospel Centered Teaching」を多数の本を著した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org […]

進化論に基づく薬物療法vs創造論に基づく栄養療法

英国海軍は壊血病という恐ろしい病気で100万人の兵士を失った。 そんな彼らがどうやって壊血病を治療したのだろうか?ビタミンCだ。当時はビタミンCという名称を知らなかった。しかし、ライムを食べるとその病気が起きないことが分かった。今、私たちが経験する多くの病気はビタミン不足によって引き起こされる。私たちは食べているもののために死ぬのではなく、食べていないもののために死ぬ。ビタミンBを十分に摂らないと、脚気になる。 聖書は語る。 「人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。…··· パンは人の心を支える。」(詩編104:14~15) 人々は小麦からビタミンE、レシチン、オメガ3脂肪を取り出し、白い小麦粉でパンを作れば、パンが数ヵ月間も維持されることを発見した。しかし、その後、人々が心臓麻痺と中風と循環障害などで死に始めた。簡単な公式だ。パンが白いほど人間の寿命を縮めた。白いパンが私たちを殺すのではなく、そのパンの中にない成分のためだ。神は心臓を強くするためにパンを作った。しかし、パンを作って売る人たちは、その日作ったパンの半分を棚で腐って売ることができないのがもったいなかった。それで収益を高めるためにパンを長持ちさせる方法を考案し、このような結果をもたらした。 健康に対する二つの哲学がある。一つは進化論に基づいた薬物療法だ。体は数百万年間偶然集まった化学物質に過ぎないため、病気を治療するためには化学物質をもっと入れればいいということだ。頭が痛いとき、医者はアスピリンを飲むように言う。しかし、考えてみなければならない。何が頭を痛めたのか? アスピリンが足りなくて頭が痛いのかな?私たちは原因ではなく症状を治療している。 例えば考えてみよう。高速道路を走行する時、燃料タンクに明かりが点いたら、私たちは2つを選択することができる。問題の原因を見つけて直したり、灯を消してしまったり。しかし、灯を消したらそれは愚かなことだ。灯は問題があるというサインだ。頭痛も体の問題があるというサインだ。マグネシウムやタンパク質欠乏など。しかし、最近私たちが飲んでいるほとんどすべての薬は灯を消す役割をするだけだ。問題の原因を解決するものではない。薬に無条件に反対するわけではないが、今の私たちの薬依存度は非常に高いのだ。ほとんどすべての病気は欠乏症だ。ビタミン、ミネラル、オイルなどが不足しているのだ。私たちの体は16種類のビタミンと60種類のミネラル、そして3種類のオイルが毎日必要だ。 すべての病気は欠乏症 1845年、オーストリア·ウィーンのシモワイズ医師は、病院で出産した女性の30%が死亡していることに驚いた。この医師は、医師たちが死んだ産婦を検査した後、手を洗わずに他の産婦を検査しに行くという事実を発見した。その時は微生物について知らなかったので衛生に対する概念がなかった。彼は自分のいる病院の医師たちに、死んだ死体を検査した後は必ず手を洗うべきだと主張した。すると死亡率が2%に低くなった。 3000年前、レビ記で神様がモーゼに言われた。「死んだ死体に触れた後は汚れたので、他の人に触れる前に手と体を洗うよう人々に言いなさい。」神様は科学が微生物を調べる3000年前におっしゃった。 医学に関するもう一つの哲学は創造論に基づいたものだ。これは体が神様によって設計され、神様が私たちの必要を満たす食べ物をくださったということだ。これを栄養療法という。野菜を食べて死ぬ人の割合は毎年0%だ。そして毎年3人程度がビタミンを飲んで死亡し、320人程度が非処方薬を飲んで死亡する。9000人程度が食中毒で死亡し、9万~11万人程度が正しく処方された薬を飲んで死亡する。これは誤って処方された薬を飲んだ場合を除いたものだ。ベトナム戦争で10年間死んだ数より2倍になる人々が毎年処方された薬を飲んで死んだ。 <つづき>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

罪の赦しは苦行ではなく、ただ十字架の拘束だけで

ネパールの神殿ではヒンドゥー教のサドウ(Sadhu、修行者)に沢山会える。サドはヒンドゥー教信者の中の聖者で、私利私欲を捨ててヒンドゥー教の教えに従ってこの世の罪を洗い流すために一生を遂行しながら生きる。無所有を実践しながら服一着、毛布一枚、茶碗一つで一生聖地を巡礼したりする。しかし、このような苦行で罪が洗い流されるわけではない。罪の赦しはただイエス·キリストの十字架の拘束によってのみ可能である。 「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイの信徒への手紙1:14) またネパールのヒンドゥー教徒は動物を崇拝する。5日間行われるヒンドゥー教の祭典「タハル」は、初日はカラス、2日目は犬、3日目は牛を崇拝する儀式を行う。彼らは牛の尻尾を洗った水を飲んだりもするが、牛は富、財産および繁栄のヒンドゥー教女神であるラクシュミの化身と見なされるためだ。 富と繁栄は、牛のしっぽを洗った水を飲むときには来ない。これはただ主による。 「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。」(歴代誌上 29:12) 罪の赦しのための大変な修行も、繁栄のための虚しい偶像も全て捨てて救援者であり主権者である神様に進むことを…···. [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

永遠不変の絶対真理「ただ十字架!」

ただ!絶対! 全部の福音!(3) 社会的にも文明的にも21世紀を迎えた私たちの外部の状況は侮れない。世間を相手にして救わなければならない教会である私たちが、この世の急激な変化に背を向けることはできない。天に属した民である私たちは世の中に送られた者たちだ。 しかし、天に属した神様の真理に従って生きていく私たちをイエス様は狼群れの中で羊を送るようなものだとおっしゃった。必ず食べるのが本能であるオオカミの前に羊を置くようなものだとおっしゃったのだ。このような世の中で天国の原理と価値に従えという言葉は、「食われる」という言葉と変わらない。しかし、この世の中は肉体を着て生きていかなければならない私たちの生活の基盤であり使命地だ。だから私たちはそっぽを向くわけにはいかない。 今は第4次産業革命時代だと言う。以前は想像もできなかった価値観とライフスタイルが目の前に迫ってきた。今や私たちが迎えている時代は予測不可能な状況なのだ。融複合時代である第4次産業革命の驚くべき変化のためだ。 しかし、混合された世の中で混ざったり変わったりすることもできず消滅することもできない絶対真理がある。嵐の渦の中で揺れないようにつかまなければならないものがある。世間と決して混ざることも、変わることも、消滅することもできない絶対真理をつかまなければならないのだ。 天と地で唯一生きて居られる真の神はただ神様しかいない 罪人たちのアイデアから出てきた数多くの神の名前があるが、聖書に書いてある通り上に天と下に地に唯一生きている真の神はただ神様しかいない。聖書が証言し、私たちに知らせてくれたこと、その方は創造の主であり、今もこの歴史を統治されて、将来審判なさる生きているエホバ神だけが唯一の神だ。 そして神様が全天地万物の中にその神聖の充満さを能力で創られたすべての万物の中に啓示して下さったが、唯一神様が人類を救うために特別啓示を盛り込んだ唯一の神様の言葉はまさに聖書だ。それだけが私たちが選ぶ唯一の真理だ。 多元主義であれ相対主義であれ、人本主義に満ちているこの世の中はお互いの相対的な価値を認め、「絶対者」「ただ」「十字架」という単語を嫌う。 「イエスだけを信じて救われる。」という言葉の代わりに、私たち皆が一緒に多様性を認め、共に対話しながら一緒に一つになろうという。しかし、聖書が宣言した永遠不変の絶対真理はまさにこれだ。 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤの信徒への手紙1:7~9)。 (2018年8月)<続き>【GNPNEWS】 キム·ヨンイ宣教師巡回宣教師。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ

ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

滞りなく流れる十字架の福音

キリストの中で完全な教会(8) 「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマの信徒への手紙6:12,13) 天地の歴史を変えるためには人を変えなければならず、人を変えるためにはその人の中心を変えなければならない。その中心を変える道は生まれ変わる道しかなく、献身する道しかない。それを可能にしてくれるのは十字架福音だ。神様と私たちの間のすべての問題を解決し、神様の完全な知恵と神様の完全な能力が充電されたのがまさにイエス·キリストの十字架福音だ。したがって、福音を聞かせるだけで御霊がこの福音の真理を私たちの魂の中に聞かせさせ、真理が照らしてくれる道に沿って行くようにする。主はガルボリ丘の十字架で死ぬことで罪=私だったこの悲しくて不可能な運命の病んだエゴをきれいに処理してくださった。そして復活されて神様の義と律法を全て成し遂げた。この事実を信じて、信仰から信仰へと従順に進む時、奇跡を見ることになる。 したがって、イエス十字架の福音なら十分だ。教会はこの福音を命のようにつかんで叫ばなければならない。神様の永遠の栄光を慕い、天国が実際になった人々が一体となった教会になる。罪を憎み、キリストの中で兄弟になった生命で、ただ主の栄光のために教会に仕える。これこそこの世で私たちが享受する天国だ。このような教会を通じて、主は我が民族を変えることができる。何も言わなくても自然と宣教的存在になる。 ところが教会に通いながら福音を信じながらも、最も重要な救援と私の人生の主権を譲り渡した献身の分岐点がなぜこのように私たちの中に薄いのか。まさにこのすべてのことを可能にするようにされたのが十字架復活の福音だ。十字架の復活の福音が実際に直面したら、この変化が起きざるを得ない。 そのように変化した聖徒と聖職者、教会はその能力でキリストが全てを主張することができる。キリストの救いの福音が滞りなく流れていく教会を誰が阻むだろうか。聖徒の数や教会の建物や教団とは関係ない。この十字架福音が力になった聖徒と教会を通じてのみ、福音の能力が力強く流れ、私たちの周辺の人々を変え、民族の流れを変えることができる。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 神様の愛(2): 神様の愛の中に内在する裁き

神の愛は私たちに大きな慰めを与えてくれる。しかし、それは人々が言うような慰めではないだろう。前にも言及したように、神様の愛は神様と私たちの関係について聖書が言うすべてを覆ってしまう神学的な毛布ではない。神の愛に対するこのような近視眼的アプローチは、しばしば愛のより広い意味を無視してしまう。具体的に言えば、神様の愛に裁きが内在しているという事実を見過ごしやすい。 愛と律法主義 多くの信者はキリスト教徒の人生を「神を愛し、人々を愛すること」と単純に言う。影響力のある大型教会の人気スローガンであるこの言葉は、貴重な優先順位を簡単なことに見せる。この簡単な文章は福音を誤って要約したものだ。 このような愛に対する誤解はイエス様当時のパリサイ人たちに蔓延している信仰だった。ルカによる福音書はこの問題と関連した事件を詳しく語っている。 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10:25-28) もしあなたがここまで読んだら、キリストが今天国に入る横門を開けたと考えることになるだろう。しかし、ジョン·マッカーサーは主がこの一節でおっしゃっている真の核心を次のように説明した。 ‘イエスは律法を守ることによって救われる人々がどこかにいるという話をしなかった。逆に律法は完全で完璧な従順(ヤコブの手紙2:10)を要求し、不従順する人々に肉体的、霊的、そして永遠の死を約束(エゼキエル18:4,20; ローマの信徒への手紙6:23)するため律法を守ることは絶対不可能だと指摘されたのだ。’ 律法主義者たちの救いに対する律法主義的な接近を確信させるよりは、キリストは彼の誤った敬虔さとその法を完遂することが不可能だということを説明しながら警告された。しかし、書記官はその点を理解していなかった。その代わり、彼は愚かにも自分の義に溺れて、とんでもない質問をした。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(ルカによる福音書10:29)。 ジョン·マッカーサーは書記官の愚かさと無知について次のように説明した。 ‘この時点で書記官はルカによる福音書18章13節のセリのように、彼自身が神様が要求する愛ができないことを認識し、御恵を請わなければならなかった。しかし、逃げ場もなく追い込まれた彼には悲惨な傲慢が続いた。彼は自分を否定するのではなく、自分自身を「正当化」しようとした。彼は告白しなかったが、きっと心の中で罪に対する確信が芽生えたのだろう。しかし、彼は内面の自覚を軽蔑し、表向きは義で価値のある人だと確信した。’ 今、多くの教会で「神様を愛し、人々を愛する」ことができる適切な能力を主張しながら律法主義のような自己確信をよく繰り返すのを見る。 しかし軽率にもそのスローガンに慣れ、神様の愛を見習えという聖書で繰り返す勧告は見過ごしてしまう。律法師が自分を正当化しながら律法の途方もない重圧感を感じなければならなかったように、主の戒名に対する正直な反応は確信と罪悪感で敏感に反応することでなければならない。 他人を愛せないこと 弟子たちにした「私が君たちを愛したように愛し合え」(よはねの福音書13:34参照、15:12)とはキリストの命令は非常に単純に見える。 しかし、私たちがキリストの愛の深さを考える時、そして彼がその愛を表すためにされたことを考えてみれば、それははるかに大きな挑戦になる。率直に言って、そのような愛を実践することは不可能だ。 キリストの愛は、世界のどの愛よりも自己犠牲の模範を示した純粋な愛である。福音には彼が救おうとする民に対する彼の驚くべき愛の手本があふれている。そしてキリストが私たちを愛したように他の人々を愛さなければならない義務を罪悪感として感じないならば、私たちはイエスがその愛のために支払った代価が何なのか全く知らない人だ。 他人を愛する私たちの能力にどれほど欠陥があるかを考えてみろ。すべての利己的な衝動、自己保護のための努力、同情心で行うすべての慰めの方法はイエス様の愛と矛盾する。もし私たちが正直なら、私たちは他の人をイエス様のように愛したことが全くないということを認めざるを得ないだろう。私たちがキリストの愛を理解していくほど、私たちの罪悪のためにその方の手本に従わない失敗はさらに大きくなるだろう。 神様を愛せないこと 神を愛することも大して違わない。イスラエルと契約を結んだ初期から、主は民の心の中に最上のものを要求した。申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と明確におっしゃった。 キリスト自身はその言葉を最大の戒名と見なした(マタイによる福音書22:36~38) しかし、立ち止まって考えてみよう。私たちは本当に神を他のなによりも愛しているのか? あの方の栄光が私たちの偉大な望みなのか?彼を敬拝する私たちの礼拝が世間のことから自由なのか? 私たちの最も大切な宝物が天にあるのか? 私たちの愛はそも方に固定されているのか? 主の志を成すことが主な動機なのか? 彼に従うことが私たちの最大の喜びなのか? 私たちはその方に礼拝をしながら過ごしているのか?私たちのすべての人生が彼に仕え、敬拝し、栄華になることに献身しているのか? それは人間と神の関係の本質である。アダムの罪は私たちを神から切り離した。キリストの中でのみ、私たちは回復することができ、永遠に父と完全で愛らしい交際を享受することができる。しかし、今神様を愛せという命令は、私たちの堕落した肉体の無能力と不正さのために私たちの罪を絶えずに思い出せる御言葉である。 焦点は何か? 神様の愛に対する正しい理解は、私たちの霊的成長と敬虔のために必ず必要なものだ。自己欺瞞的な不信者たちにとって、神様の愛の深さは真の霊的状態の深刻性に対する悟りにならなければならない。 「神を愛し隣人を愛しなさい」と単純化された福音は全く福音ではない。神の律法を履行する能力に対するバリサイ人的な確信より、あるいは最も単純な要求でさえ、彼らは肉体の致命的な欠陥を理解しなければならないのだ。彼らは罪悪の重圧感を踏みにじられるように経験しなければならず、自分の意を覆い隠している傲慢さを破らなければならない。彼らはガラディア教会への手紙の中でパウロが説明した変化を経験しなければならない。 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤの信徒への手紙 3:23-24) 簡単に言えば、彼らは謙虚に心から悔い改めなければならない。不注意な信者も同様に、神の愛によって謙遜されなければならない。救いは粗雑な神学やわいせつな生活に対する言い訳ではない。神の民は人生を通じて彼の愛を表わすために、その愛と戒めを正しく知り畏敬の念を持たなければならない。 私たちがどれだけ不足しているかを認識することが、私たちの成長と敬虔さの原動力になる。私たちはキリストにもっと似るためには節制しなければならず、周りの人々に彼の愛の手本を見せる人生を送らなければならない。 また、それがキリストへのより大きな愛に拍車をかけなければならない。私たちに要求されるこのすべてのことは究極的に愛の完全な標準であり、愛の完全な表現であるその方に焦点が合わされなければならない。その方だけが愛が要求するすべてを完全に成し遂げた唯一の方だ。 その方の中で私たちは神の愛の真実と完全さを発見することができる。それが私たちが次の時間に見ていくテーマだ。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

すべてのものは 光にさらされて, 明らかにされる

作品説明:モナ·ハトゥム、「異邦人の群れ(Corps Étranger)」、1995、映像設置物、ポンピドゥーセンター所蔵、フランス·パリ モナ·ハトゥム(Mona Hatoum)はレバノン生まれの英国人芸術家で、パレスチナ人の両親の間で育った。レバノン生まれだけどレバノン国籍を持たず、イスラム文化の下で成長したが、アラブの家父長制には同意できなかった。このような理由から1980年代末、彼女の初期作品はアラブ女性として尊重されなかった母親に対する憐憫が土台に敷かれている。そんなハトゥムの作品を世界舞台でデビューさせた作品が1995年の「異邦人の群れ」だ。 <異邦人の群れ>は一人がやっと入れる規模の円筒形設置物で内部に入ると、グロテスクで奇異な映像が上映されるが、まさに作家の体の内外を内視鏡で撮影した映像だ。観客は密閉された空間に入り、ハトゥムの体の外部から始まり、内部への道(消化、排便、生殖通路)に沿って彼女の体の内部をのぞき込む。これを通じて、ハトゥムは女性をそれ自体で眺めるのではなく、部分部分に分けて性的対象物に転落させた支配的で権力的な視線を批判しようとした。言い換えれば、円筒の中の映像は私たちの視線によって破られた一人の人格であり、いざ不便でなければならないのは気持ち悪い映像ではなく、歪曲されて暴力的な私たちの目線であることを指摘した。 ハトゥムの意図はこうだが、<異邦人の群れ>を見れば隠密に隠されていた罪に直面できる信仰の力を思い出す。事実、ハトゥムの身体内部を見て感じた不便さは、私たちの内面に隠された闇が明らかになる時も間違いなく訪ねてくる。直面しようとする勇気を無力化するこの恐れは「婚前性関係」の代わりに「速度違反」、「外道」の代わりに「浮気」と比喩するように、罪を縮小したりする。しかし聖書は明らかに「すべてのものは光にさらされて,明らかにされる」と教える。内面のいかなる汚れや闇、絶望があるとしても、イエス様の血で得た救いが予定されているためだ。復活の能力を信じる信仰があれば、あらわれたことを加減しない直面の力を得る。その過程で怖かった手術台が救援と復活の審判台に変わる光を経験することになる。そのために明らかになったのは何でも光だ。主は罪をうまく覆い隠す能力者ではなく、それを十分に赦す全能者だからだ。[福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

スペイン、静かな風景の裏に吹く性転換の風

地中海の明るい日差しが差し込むスペイン南部の港町、マラガ。1年のうち雨の日が50日にも満たないほど日差しが豊かで、冬が暖かい都市だ。宿舎から見下ろしたここトーヨー市場は、些細な物を売買しながら旅行客の目を引いている。マラガの午後は平穏極まりない。 しかし、何事もなかったかのように穏やかなスペインの風景の裏には同性愛、性転換の風が吹き荒れている。スペインは12月22日、クリスマスを3日後に控えて16歳以上の未成年者も医師診断なしに性転換を可能にした。スペイン下院が16歳以上であれば、医学的所見がなくても誰もが法的に性別を変えられるよう、国家身分証の性別変更手続きを簡素化させる法案を通過させたのだ。これまでは性転換者が法的な性別を直すためには性別違和感を経験しているなど、複数の医師の診断が必要だったが、これからはこのような条件がすべて必要なくなった。原案通りに上院を通過すれば「転換療法」が禁止され、LGBTを狙った攻撃も処罰できる。主がくださった地中海の日差しを受けるように、創造秩序の美しさを受けて享受するスペインに回復することを願う。 「私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブの手紙5:19~20) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

キリストの中で完全な教会(5)

「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

唯一無二で複製できない特別さ

神様が私を呼んでくださる時 ルネサンスの巨匠ダ·ヴィンチ<モナリザ>の新聞写真を30回繰り返したこの作品は、米国のポップアーティストアンディ·ウォーホル(AndyWarhol)のものだ。 ウォーホルは繰り返しを通じて大量生産システムに言及した。 一つ一つ、手作業で作った物は同じではなく差が出るものだが、機械で生産された物は外観や品質が全て同じだ。品物が大量に複製されるわけだ。歴史的にこのような大量複製システムに感激した時期があった。1920年代のソ連と1960年代末の西ドイツだ。 社会主義革命家たちは、ブルジョアが独占した芸術は、大量生産と複製システムを通じて民衆に戻すことができるという希望を夢見た。代表的なのが映画だ。 1960年代末、学生運動の真っ最中だった西ドイツでは、大衆に親しみのあるイメージを繰り返すポップアートがブルジョアの専有物だった美術を皆に返すことができると考えた。しかし、期待は直ちに挫折に変わった。ウォーホルは最初から美術を大衆に返すつもりはなかった。キャンベルスープ、マリリン·モンロー、モナリザなど、マスメディアが生産するイメージを何度も繰り返したウォーホルの作品は精巧で堅固な米国の生産システムに言及するだけで、批判はしなかった。また、ポップアートも他の絵画と同じように希少性があって神殿のような美術館で巨額の価値を誇る位置に上がった。 ポップアートの中でも最高値を誇るウォーホルの<30は1より優れている>は矛盾された。重要な一つが削除されたからだ。ダ·ヴィンチの<モナリザ>が持つオーラ(aura)だ。オーラとは、たった一つの原本だけが持つ力である。<モナリザ>を撮影した白黒写真の平凡さには感じられない、複製できない何かだ。私たちを見る神様の見解もこのようなものではないだろうか。多くの人の中の一つではなく、唯一無二で複製できない特別さで私たちに接してくださる。神様は自ら私を指名して名前を呼んで下さる。 多くの人の中で一人の身振りに過ぎない私を呼んであなたの花になるようになさるのだ。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org