[チェ·ヨナコラム] 策略と「恐怖」

音戦争15 「私たちの握った手が開くためにはどうしたらいいだろう?」私たちの握った手が問題ではなく、自分の心に何かが定着して一生それに従って生きることがもっと大きな問題ではないだろうか!ヤコブには本当に越えがたい「アキレス腱」があった。それは「恐怖(fear)」だった。私にも他人に話せなかったアキレス腱があった。それは38年間の「乾癬(Psoriasis, 粃糠性乾癬)」という皮膚病だ。この病気は今でも私に言葉にできない苦痛と痛みを与える肉体的な棘だ。 小学校から始まった「吃音」と「皮膚病」、そして父の「アルコール依存症」という三重苦は、私の人生に許可なく訪れた不躾客のようだった。最初は単に皮膚病だと思って薬を飲んだり塗ったりすれば治ると思っていたが、時間が経つにつれて治らず、どんどん悪化し、頭から足まで全身が奇妙な皮膚のカサブタのようになるのを見ながら、私は自分自身を守らなければならなかった。世間の指を指されるかも知らないという恐怖、友達に避けられて嘲笑を受ける恐怖、結婚もできずに一生孤独の中で生きるしかないという運命論的な絶望感、そして四季を問わず常に長袖と長ズボンを着て過ごさなければならない苦痛が私を絶望の淵に追い込んでいた。 この皮膚病を治すためにあちこち走り回っていたある日、「皮膚病をよく治す」という「巫女のおばあさん」を紹介された。そのおばあさんは、皮膚病ができたのは私の体内に「汚れた血」があるからで、針で全身を刺して汚れた血を抜かなければならないと言った。そして、服を全部脱がせて、私の体に「塩」を振りかけ、「祈祷」をしながら「剣舞」を踊る儀式を行った後、針で全身を刺し、蓖麻で血を絞り出し始めた。血が出るとその上にアルコールを塗った。家中に血とアルコールの匂いだった。今考えると、それは医術ではなく、ある種の「巫女宗教儀式」だった。 また、皮膚病患者が銭湯に行くことはあり得ないことだったので、常に家でお湯を用意して洗わなければならなかった数多くの時間は、今でも私に深い傷と痛みの跡として残っている。 ヨナ:「お父さん!今日は一緒に銭湯に行きましょうか?」 ヨナ:「今日はお父さんの背中を流します。」 お父さん:「私はいいけど、大丈夫かい?」 ヨナ:「はい、大丈夫です。他の人に感染する病気でもないし、特に問題はありません。」 生まれてから一度も父の手を取って銭湯に行ったことがなかった私は、その日勇気を出して父の背中を流すために銭湯を訪れた。そして、服を脱いで、父と一緒に湯船に入り、父の背中を流し始た。 しばらくすると、何人かの鋭い視線を感じる頃に、管理者の方が来てこう言った。 管理者:「出て行ってください!」 ヨナ:「すぐに洗って出ます。」 管理者:「他でやってください!潰れるのを見たいんですか?」 ヨナ:「これは他の人に感染する病気ではありません!」 管理者:「すぐに出て行ってください!」 冷酷に追い出されて、父の背中を流してあげることもできずに出た。私の一生の願いは、年老いた父を連れて公衆浴場に行き、父の背中を流してあげることだったが、それさえも許されない状況で、私は号泣した。中国に短期宣教に行き、チームメンバーと一緒に浴場を訪れたときも追い出された痛い記憶があって、父との美しい思い出を作れなかった「浴場事件」は、ずっと心を圧迫する記憶として残っている。そして、私の中にあるもう一つの恐怖は、まさに「結婚」だった。 「こんな皮膚病の患者に結婚したいと思う人がいるだろうか?」自分でも自分を受け入れられず苦しんでいるのに、こんな私を抱きしめてくれる人に出会えるとは1%も思ってなかった。時間が経ち、結婚したいと思っていた姉妹に私の皮膚病の話を正直に話したとき、当然拒否されると思っていた。しかし、その姉妹は、皮膚病という肉体的疾患は何の問題もないと言って、私のプロポーズを許してくれたとき、私は生まれて初めて人に「受け入れ」と「慈悲」の感情を学んだ。しかし、恐怖が持つ影響力は大きく、今後生まれてくる子供たちの「肌の状態」が一番最初に心配になった。 「もし私のように皮膚病を持って生まれたらどうしよう?」 「もし私のように言葉をたどって人々に笑いと嘲笑を受けたらどうしよう?」 私の恐れがどれほど大きかったのか、息子と娘が生まれたときに最初に確認したのは子供の肌の状態だった。しばしば妻は不信者よりも信じられない信仰を持つ私にこう助言した。 「起きていないことをあらかじめ引き上げて心配するのは、不信者よりも大きな犯罪」だと。 「本当にそうだった!」 神様は私が持っている恐怖よりも大きく、完全なお父様であるという事実を今まで学ばせてくださっている。 神は, おくびょうの 霊ではなく, 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです.(テモテへの第二の手紙 1:7)

君は私の栄光そのものだよ。

"神様、私が成功したら、人々に神様が能力を与えてくださったと言います。"しかし、神様は私たちの本当の心を知っておられる。'自分'の栄光のために神様をボーナスカードと思っているということを。しかし復活の主はそんな私たちの手を握って永遠な道を見せてくださる。"君が成功してこそ私が栄光になるわけではない。君は私のの栄光そのものだよ。" "彼らは皆,わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり,完成した者。"(イザヤ書43:7)[福音祈祷新聞] 絵 イスジン <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]十字架で恐怖と直面する

“イエスは、目の前に置かれた死に真正面から迎えて十字架に耐えていらっしゃった。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。” “ドロシー万歳! 邪悪な魔女が死んだ!”ドロシーはおぞましい魔女に水バケツをかけて辛うじて退けた。魔女はゆっくりと溶け出した。6才の幼い心でこの場面を見たら心臓が張り裂けそうになってドキドキしてた。たまたまあったバケツのおかげで災いは免れたが、話はまだ終わっていない。魔女の棒を手に入れた後、ドロシーは家に帰る方法を探すためにオズ魔法使いの宮廷に入った。魔法使いの巨大な頭が火炎、煙の中で叫びながら迎えた。妹とわたしはあわてて枕に顔をうずめた。怖かったけどオズの栄光が我々の興味を引いた。 生まれてからこれほどの衝撃的な出来事を経験したことがなかった。ドロシーがオズの魔法使いを追い出すほどに大きなバケツは世界のどこにもなかっただろう。だけど希望が消えたように見えたとき,ドロシーの小犬,トトはカーテンを引っ張った。ドアが開くと白髪の男が立っていた。 “カーテンの後ろにいる男のことを気にするな”と偉大な魔法使いオズは言った。しかし、なんと、その人は偉大な魔法使いオズではなく、マイクを持った年老いた男に過ぎなかった。詐称劇は終わり,ドロシーの赤いルビー色の靴が彼女をすぐに帰宅させるだろう。 人の心は恐怖に捕らわれやすい。多くの人にとって,この程度の監禁は長い間外傷を残す。ミシェル·モンテーニュの言葉によると、”私の人生は恐ろしい不幸に満ちていたけど恐怖に襲われることはほとんどなかった。” 恐怖は、私たちが見るすべてのものを占領するほどに精神と情緒を作動させるものをを支配する。 聖書で‘恐れるな’という訓戒にもかかわらず、イエス様がおっしゃった“安心しなさい。。。恐れることはない。”(マタイ14:27)や“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(ヨハネ第一4:18)という言葉にもかかわらず、恐怖は私たちを締め付けるのに非常に簡単である。恐れるなという聖書の言葉はシェイクスピアの有名な詩’もう恐れないで’のようによく私たちの耳に響く。 きらめく稲妻をもう恐れないでください。 すべての恐ろしい雷も恐れないでください。 中傷謀略の非難を恐れないで。 君は喜びも悲しみも終えた。 すべての若い恋人たち、恋人たちは誰でも 君に任せに土に帰りなさい。 この詩はタイトルが恐怖から抜け出す道を暗示するため注目できる。しかし、シェイクスピアがある希望を心に描いたら、それは今生ではなかったはずだ。詩の最後の一節のように彼はあなたを墓に連れて行くのである。 しかし、新約聖書は死に対する違う概念を提案する。例えば、イエス様は“一粒の麥は地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが、死ねば、多くの實を 結ぶ。”(ヨハネ12:24)と言った。死は終わりではない。むしろ人生の始まりであり、恐怖が力を失う通路である。どんな姿であれ恐ろしさはこの詩の最後の一節で私たちを迎えない。 一例を挙げると、1505年7月のある日,マーチン·ルターは馬に乗って家から学校に行く途中で雷に遭った。速い速度で動いていた雲は彼の旅行の最初には優しい雨を降らせたが、雨脚は激しくなった。雷が耳をつんざくような音とともにルター周辺の地面に打ち下ろす前に空がぴかっと光った。あまりにも危険なほど近寄りすぎて,彼は恐怖のあまり地面に落ちた。自然の怒りにルターは叫んだ。“助けてください、聖母アン! 修道僧になります。” 500年が経った今、ルターが経験した恐怖が彼の信念の旅を始めたことに気づく。この例のように、私たちは恐怖の影響で世の中に追い込まれている数多くの人々を見ることができる。そうした経験は我々の実在にとって転換点となるほど重要かもしれないが、よりもっと大きな最後の決戦をわずかに反映するだけだ。詩人ロザンナ·エレノア·レプロホーン(Rosanna Eleanor Leprohon)は‘ゲッセマネでイエス’という詩でこのように書いた。 疲れきった弟子たちがみんな眠っている間、 一人深い苦痛の中にいた 一緒に祈る人ももいないし、 一緒に泣いてくれる人もなく その前に置かれた高く上げるべき、 死苦の十字架 幾多の罪人たちの魂を得るために 死にかけるゲッセマネの園! 神様だけの経験 苦しくて悲しむ人に 大切な証が残され 傷ついた心がもっと強くなり、 罪におわれて絶望に陥って死んだ イエスは、目の前に置かれてある死を正面から迎え、十字架を耐え抜いた。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。永遠な過去から父と完全な交際をしていたその方は見捨てられた。神の怒りは絶えず怒りにあふれ、神様との関係は神聖さの恐怖によって隠された。その罪の重みの下でイエスは叫んだ。“エリ, エリ, レマ, サバクタニ”これは,“わが 神,わが 神,なぜわたしをお見捨てになったのですか ”という 意味である.(マ27:46)。 私たちは神の裁きを受けるのが当然だ。我々は愛の神から断絶された。しかし神の救いの恵みのおかげで、その呪いを私たちのために耐えられた。キリストは我々の闇の中に投げ込まれた。そして死から復活されて神様の右に腰を下ろされた。今イエス·キリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。また父に捨てられることを恐れる必要はないので、何も恐れる必要はない。 [福音祈祷新聞] “イエスキリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。” クリス·キャスタールもChris Castaldo|米国イリノイ州ネイパービルにあるNew Covenant Church先任牧師。代表著書’Justified in Christ’ このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 […]

世間と区別された聖なる

バーネット·ニューマンの「ハナイム(Onement) ユダヤ系米国人画家バーネット·ニューマンが1948年作<ハナイム(Onement)>を初めて発表した時、多くの学者がニューマンの描いた「帯」がどういう意味か熱い論争を繰り広げた。 筆跡もほとんどない平らな背景に明るい色の線が一つ引かれただけだった。攻撃的で激情的な作品を描いた抽象表現主義者たちはこれまで自分たちと付き合っていたニューマンがこのように単純な画面を描くや、つい裏切られたと感じた。しかしその後もニューマンは「帯」を描き続けた。そして創造、始まり、約束、アダム、イブのような’創造’にかかわるタイトルのためにニューマンの帯は’光あれ’という神様の命令を描いた抽象画で知られるようになった。 ある人はニューマンの帯は二つに分かれるという意味だといい、ある人は神様と人間の間の約束(covenant)を意味するとも言った。ある人は彼の絵で神様の前に立つ人間を見た。題目は‘一つ’と関係があったが,多くの人がニューマンの絵で’分ける’と’区別’を感じた。 しかしニューマンの帯は事実‘聖なる’と関連がある。ユダヤ人は精潔食の律法に従ったが、ヘブライ語でこれを’カシャロット’と呼ぶ。 ‘カシャロット’は,‘カルドシュ’から由来された。ここで、カドシュやカシャロットはすべて‘区別’の意味と関連がある。ローマ書でパウロは“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。”と言ったが、この神聖な区別もカドシュを意味する。 また、神様は私たちに“あなたがたは 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである”と‘命令’された。すなわち、世の中からの区別は神様と一つになる聖を指す。世の中に住むが区別され、神様と一つになった聖徒の人生。背景の真ん中に描かれながらも、色は区分されたニューマンの<一つ>は、まさにこのような聖徒の人生を描いたのではないだろうか。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 『著作権者ⓒ福音祈祷新聞』本誌の記事は、国々を抱いて祈る方々に使えるよう許容しています。出典「福音祈祷新聞」を明らかにして使ってください。 ご活用の方は本紙にてお知らせください。 連絡先:gnpnews@gnmedia.org

心とペンで捧げる祈り

書く祈りの目的は神様との関係で生ずることに対する私たちの認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈りである。 書き祈り 一般的には祈りを声に出したり、黙想の形でするのだと考えがちだ。しかし、祈りは多様な形で実行できる。特に、書き祈りのような祈祷は、非常に重要な祈祷の方法になり得る。書き祈りは、心と思いを神様の御前で深く省察する祈りになることができるため、大声で精神なしにする祈祷よりも深くて豊かな祈祷になることができる。書き祈りは、神様との関係を省察する祈祷として作用できる。書き祈りの目的は、神様との関係で生ずることに対する我々の認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈祷である。書き祈りは声で捧げる祈祷ではなく、別名‘心とペンで捧げる祈祷’である。 私たちの霊的旅程で私たちの知識と世界観が心の中に入ってから初めて魂と化することができる。魂を作ることができる器は省察と驚異によってもたらされた内面のコンテナだ。もし毎日数分間書き祈りをすれば間違いなく心の治療にかかる経費と手間を省ける。書き祈りの素朴な実践は私たちの人生の中に多くのことを提供することができる。ある人には神様の御前で人生の省察を、ある人には神様とのより深い関係を、ある人には神様の御前で自分の人生が変わる体験をする機会になれる。 霊性地図としての書き祈り 書き祈りの最も核心的な特徴は、神様の御前で自分を深く省察する最も効果的な方式であるために霊性地図という特徴を持っている。 すなわち、書き祈りは、日常で起こることを具体的かつ明確に叙述する祈りであるために自己認識と同時に霊的省察と感受性の修練に効果的な祈祷方式になり得る。書き祈りは人生の意味を画期的に変化させるのに役立つ。書き祈りによって、私たちの人生に関する否定的で肯定的な暗示を与える固定された形が現れ始めることができる。そのため、書き祈りはただ神様との会話にだけに目的があるのではなく、霊的地図として作用することができる。書き祈りは私たちが経験することの中で、神様がどのように働いているかを見分けるのに大いに役立つ。特に、書き祈りは、感情に注意を払うことで、我々の内的人生を反映する一つの分別訓練になりうる。書き祈りは我々の考え、感情、行動に多大な影響を与えかねない。 書き祈りは日常の具体的な状況を超えて浮雲をつかむことを許さない。書き祈りは、自分の最も深い内面(deepest self)を隠し、社会的共同体的役割だけを強調する表面的自我(surface ego)にとどまっていることを許さない。 書き祈りが霊性形成の効果的な方法になるためには個人的でなければならない。書き祈りが霊性形成のための祈祷になるためには神様に自分の全てを現して表現しなければならない。 書き祈りは、良い日や悲しい日ともに実際に起こったことを持って心とペンで神様と会話することで、’良かった昔’を懐かしむホームシックを治療することができる。また、書き祈りは’私には良いことは全く起こらなかった’という悲観的な評価を治療することもできる。神様と共に自己洞察力(self insight)を育てる良い方法になり得る。書き祈りは苦しくて辛い時に自分に向き合うことで、内面の緊張と葛藤を省察するのに大いに役立つ。 ひいては、自分の祈祷の歴史として残ることができる。自分の人生の中で神様の臨在と働きを通じて感謝の人生と能力を増大させることができる。書き祈りは様々な内容を含むことができる。聖書の句節や事件に対する洞察や黙想とともに捧げることができる。 特に、聖書の黙想を通じて省察祈祷、悔い改め祈祷、嘆息祈祷、喜びの祈祷、感謝祈祷の形で書き祈りができる。書き祈りは霊性日記の形で実行されることもできる。 長い間書き祈りをすれば記録された祈祷を通じて省察して、読む時に人生の方向について省察するのに役立つ。また、日常で時間とエネルギーを使うのに実際に優先順位をどこに置くかを決める時にも有用である。特に、苦しい時期に捧げられた書き祈りは我々に具体的に起こる人生の様々な質問について実際的に再び回想させたりもする。書き祈りは前に書かれた祈祷を通じて、再び祈祷することで、自分の霊的旅程のパターンを省察することができる。これは私たちが祈った状況や神様の助けで困難を乗り越えたものを後で読むことによって現在と未来に対する希望をさらに神様に置くことができるようになる。 書き祈りのモデルとしての詩編 プランナリー·オコーナー(Flannery O’Connor)は若い頃、祈祷生活の深さを深めようと努めているうちにペンで祈祷日誌を書き始めた。彼は、心の中で躍動する感性を把握して吐露し、噴出するだけでなく、神様の臨在の中で率直な姿勢を取った詩編記者たちの祈りの道に進むことになった。オコーナーはこのように記録した。 あなたのことを考えたり、いつも渇望するあなたの愛で胸がいっぱいになるよりも、芸術的な技巧を磨くことに全力を注ぎました。愛する神様、私が好きな方法で主を愛することはできません。私の目に見える神様は細い三日月です。私の自我は月を見ないように隠す地球の影のようです。 愛する神様、私の自我の影がますます大きくなり、月の全容を見ることができなくなって、そしてそれこそ何でもない影を根拠にして自分自身を判断することになったらと怖いのです。自ら道をふさいだせいで、私は神様であるあなたをまともに知ることができません。(Flannery O’Connor, A Prayer Journal, 3)。 オコーナーは人生の勝敗は愛の優先順位を設定し直すことにかかっているということを意識した。これは、オガスティンが悟り、彼の祈祷日誌告白録に記録した内容と同じ脈絡だ。神様や隣人より成功を愛する心構えは、心霊に虚しさを増す。オコーナーは自分の非凡な才能によって傲慢で利己的な者になるところだったが、祈りで絶えず心の志向点を調節した。彼はこう書いた。″神様、どうか私の考えを透明にしてください。清潔に洗ってください。 …万物の底まで下りて神様が泊まっているところを悟らせてください″(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。 オコーナーは形式的で習慣的に繰り返す祈祷行為を踏襲することで満足できなかった。彼はこう告白した。 “これまで繰り返してきた祈祷文の内容を否定するという意味ではありません。しかし口で言えたとしても、心では感じられませんでした。 意識は逃亡者のように四方八方に飛び回っていました。毎度こんなふうに祈っていました。反面、神様を思ってその心情を書く時は愛のぬくもりが全身を包むのを感知しました”(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。ある日、彼は書き祈りの最後の部分にこのように書いた。″誰でもいいから祈る方法を教えてくれませんか?″(O’Connor, A Prayer Journal, 23)。 同じ質問をする人が今もにも数え切れないほど多い。キリスト人なら祈りが重要だということを知っているけどどのように祈るべきかについてはよくわからない場合が多い。祈りはただ声だけで行うものではないからだ。祈祷は口だけでできるのではなく、書くことでもできる。詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷の実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。詩編は、書き祈りの典型的なモデルだと言える。 書き祈りは正しいとかそうでないとかの決めた方法がない。書き祈りだとして論理的な形の書き方をする必要はない。文章で書いても良いし、句節や単語だけでも良い。書き祈りは、内面の省察と深く関わる祈祷であるために速い速度で声を出す祈祷ではなく、ゆっくりと心とペンで捧げなければならない。書き祈りには少なくとも真の心、悔い改め、感謝、希望、省察、恐れが神様の御前で吐露されなければならない。 [福音祈祷新聞] “詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。 詩編は書き祈りの典型的なモデルだと言える” サイチャングック白石大学神学大学院とキリスト教専門大学院で実践神学教授として在職、’キリスト教霊性’、’解釈と分別’、’説教と相談’など多数の本を著述 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約によって掲載されています。 www.tgckorea.org

信仰の根拠は私たちの可能性ではなく神様にある。

福音であるイエス·キリスト(3) 問題をあまり近くから見ると,ほかのことが見えない。しかし,問題から少し離れてから見ると,見るべきものが見えてくる。 いざという時になると何も考えられず絶望に打ちのめされる。行き詰ってるように感じられ、問題や絶望が大きく見えると神様は極めて小さく見える。 しかし、問題から少し離れてみると、偉大な神様が見えることになる。 恐れずに信じさえせよ。 信仰で主の御前で応答を受けて従順したけど絶望が訪れたその時、主は恐れずに信じろと言われる。′それでは何を信じますか? 誰を信じればいいですか?′と、このような質問をする私たちに、主は死者を生かして、ないものをあるかのように呼び出す主を記憶して信じろと言われる。私たちの目の前で広げられる死は終わりのように見える。しかし、神様に死は終わりではない。主は復活された。福音の中心にはこの十字架の死と復活がある。十字架は私たちの凄絶な絶望を語る。永遠に審判を受け終わりにしなければならない私の昔の人の死だ。私はイエスと共に死んだ。 しかし、これが終わりではない。主は死に勝って復活された。そして、主は私としては不可能であり、できないことを瞬間ごとに確認させる。 罪人である私たちの本性は神様なしで自分が主人になって生きることに慣れている. その時、主は十字架をまっすぐに見ろと言われる。主と私が一緒に死んだ十字架を見たら私たちとしてはできないけどイマヌエルで居られる神様が成し遂げられるのを経験することになる。 會堂長ヤイロと共に旅に出た主は、始めだけを共にして、後は自分でやれとおっしゃる方ではない。 主が共に進み出た道は、始まりが主であれば終わりも主である。 だから、主が終わりでないと言うなら、我々が終わりだと結論を下してはならない。 主が終わりといわれれば終わりだ。 死の絶望が訪れても怖がらずに主を信じろと言われる。 私たちはこの時、死者を生かし、ないものをあるかのように創造する主を信じる信仰が必要だ。この信仰は、恐れずに信じろという御言葉の答えである。 神様はアブラハムの信仰について彼が彼は 希望するすべもなかったときに, なおも 望みを 抱いて, 信じたと述べている(ロ―マ人への手紙4:18)。子孫を与えるという約束をされたけど、アブラハムが90才で、サラは月のものがとうになくなっていた。アブラハムは自分が子供を生むことができないことを確認しても,信仰が薄れなかったと言われる。しかし、アブラハムの信仰は揺れた。ただ神様が約束を成就するまで支えてくれただけだ。 したがって、信仰の根拠は我々の可能性にあるのではなく、呼ばれた神様にある。このため、私たちの信仰は揺らぐ必要が全くない。私が私になったのが神様の恵みのためである。私を創造された方も、お呼びになった方も神様である。私の走れる道を全うするように主の恵みでその道を行くようにしてくださるのだ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞]

福音の能力

十字架にかけられた人生と聖霊充満した人生について研究して望むことだけでは不十分だ。何よりもこのような人生を渇望し、神様に求めなければならない。 このような人生のために、イエス·キリストの前で他のことを完全にあきらめなければならない。 重要だと思うすべてのことに背を向け、直ちにその方のもとへ駆けつけるほど、このような人生を望まなければならない。 キリストが私の人生の最高統治者であり、主にならなければならない。十字架の前に完全に跪かなければならない。自分の罪に対して死ななければならないのみならず義に対しても死ななければならない。自分が以前に誇ったことすべてについて死ななければならない。この人生の魅力を経験した人たちは、諦めたことについて文句を言わない。 なぜなら、失ったものよりはるかに多くのものを得て喜ぶようになるからだ。 [福音祈祷新聞] 御靈 (A.W.トーザー)より抜粋