[チェ·ヨナコラム] 足よ、僕を助けて

音戦争2 私たちは聖書の多くの信仰の英雄に出会う。聖書に出てくる神様の人々の中で私たちが本当に似たくて、見習いたい色々な人々を思い出すが、代表的な人を選ぶとすればおそらくアブラハム、ヨセフ、モーセ、ダニエル、エレミヤ、ペトロ、ヨハンそしてパウロのような方々ではないかと思う。ところが、私たちが回避したくて、あまり似たくない代表的な人物を旧約聖書から選べと言うならば、最も1順位がおそらく「ヨナ」ではないかと思う。ヨナ書を読んでいると本当にあきれて唖然とする。なぜなら、どうやってこのような人を神様が呼んで預言者の役割をさせたのか理解できないためだ。ところが私は旧約聖書の中で最も人間的で、人の匂いがし、私たちの根本アイデンティティと実体を最も克明に表わす旧約聖書は「ヨナ書」だと思う。 イスラエル国がソロモンによって分裂し、南王国ユダと北王国イスラエルに分かれた時、北イスラエルの最も大きな繁栄期をもたらした王は「ヨロボアム2世」だった。この時、神の使命を受けてイスラエルを圧制した代表的な敵国であるアッスルの首都「ニヌウェ」に行って悔い改めのメッセージを伝えるように選ばれた人がヨナだった。ヨナの故郷はナサレットから北東5km地点の「ガードヘベル(注:Gath-Hepher、くぼみのワイン汁を搾る型という意味)」というところだが、そこからニヌウェまで行けということだ。 「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」(ヨナ1:2) その呼び掛けにヨナが見せた最初の反応は「逃げること」だった。エホバの顔を避けようと起き上がり、ヨブバ港に行って船に乗って「タルシシュ(注:スペイン地域)」に逃げる預言者ヨナの姿に私たちは舌打ちをしたりもする。 しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。(ヨナ1:3) 「あら。。。どうしてあんな人が預言者なんだろう」 「なぜ神様はあんな人を呼んで使うのだろうか?」 「私だったらあんなに反応しなかったのに!」 本当に驚くべき事実はヨナがタルシシュに逃げようとしてヨブバに下がったすべての行動の理由が「エホバの顔を避ける」ためだったという。 エホバの顔を避けようと船に乗って再びスに逃げている姿が創世記3章で神様に犯罪した後に神様の声を聞いてアダムと彼の妻が「エホバ神様の顔を避けて」園の木の間に身を隠したという話と驚くほどオーバーラップになる。 その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。(創3:8) 「人類の歴史以来、私たちが一番得意とする特技は、常に神様の顔を避けて逃げることだろうか」 「もしかしたら、私たちの人生もずっと神様の顔を避けて隠れてはいないのか、ヨナ書を通じて神様が話しているのではないか」<続く> [福音祈祷新聞] このコラムは筆者の著書「音戦争(うつぶせ出版社)」から著者の許可を得て抜粋、掲載します。 |チェ·ヨナ宣教師|総神大神学大学院卒。国際OMイスラエル所属。 CCCとYWAM礼拝導者とリーダで使役。著書「君が私の栄光を踏みにじった」(2020)に続き、最近これまで私たちが逃していた「神様の声」を渇望する気持ちで2023年11月<音戦争>を出版した。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[イアスコラム] 信仰は心を神様にささげることです。

神様のみことばを守らなければならないという負担感ではなく、私の中におられる主として、一歩一歩、信仰の歩みを歩き出して、みことばが自分の人生に血と肉になり、自分の道を導いて、みことばを守る人々に神様の恵みと平和が臨むと言いました。神様を愛する道がはっきりと見えてほしいと願う心霊になりますように祝福します。 まず、日常で私たちの心が僕になっていることを見なければなりません。日常で私たちの心が結ばれているところがあります。しかし、なぜ縛られていて、それをどのように解放するのかを知る必要があります。私たちは縛られていることに引き付けられます。これを解いてこそ主に従うことができるからです。 信仰を複雑に考えるのではなく、単に点検してください。心を神様にささげることが信仰です。「クレド」は心臓を差し上げる、心を差し上げるという意味です。命をささげるのは心をささげることです。 だから信仰があるかどうかは測定できます。縛られているものに心を使うのか、天に向かって心を使うのかがわかります。 心が神様にいる人の心は、周囲の環境に心を奪われません。環境に気をつけません。内面が主を眺める栄光があり、他の所に心を奪われない信仰の大きな響きがいっぱいであることを祝福します。 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤの信徒への手紙 6:7) 豆を植えたら豆が出来るし、小豆を植えたら小豆が出来ます。私たちは信仰を植えられなければなりません。その人生は自分の力で生きる人生では有ません。自分で生きる人生は元気なように見えます。自立心、独立心! 人生の力のようで、何か成熟しているようです。その「自ら」は社会通念上自然さと言えます。 この間、駐車チームと出かけました。とても嬉しかったです。みことば分かち合いも5時間しました。日常の考えを分かち合いました。なぜ私たちは日常で自分の気持ち、苛立ちに勝つことができないのですか?なぜ日常で真理で結論を出せないのでしょうか?なぜ主がくださる意味ではなく、気分が自分を左右するのでしょうか。 単に結論を出した。自分の気持ちが信仰よりも大きいからです。心が傷つくその内容が真理より大きいからです。それでは、真理よりも大きくなった自分の考え、心、心の中をどう扱うべきでしょうか? 「自分で」という言葉の意味を悟らなければなりません。「自然」と言えばいいイメージがあります。40代後半から60代半ばの男性11人が一緒に行って写真を400枚余り撮りました。「自然」と言えば自然だという良いイメージがあります。自然なことを否定してはいけないと言います。 しかし、聖書から見ればそうではありません。自然は自ら生まれたものです。つまり自然は、自力でそうなったのです。しかし、聖書は自らなることはありません。人間も自力で生きようとして追い出されました。 社会的に、言語的に自然という言葉は良いイメージで深く根付いていましたが、実際には決してそうではありません。写真を撮るときに自然にポーズを取ってみると言えばうまくいかなかったのですが後で分かりました。 「私たちは信仰人なので自然でいたらダメなのだ!」放置しておくのは自然ではありません。ただ置くのは自然なことではありません。神様の人は神様の手の下、神様の雰囲気の中になければなりません。神様が働かれるその力を与えられなければなりません。自然なことは良いことではありません。 「自ら」は原語で見ると「プラナオ」です。円形の動詞は、信仰と伝統から抜け出すという意味です。迷う、だまされる、裸だったという意味もあります。 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります(ガラテヤの信徒への手紙6:8) 主の心が宿り、主に従う人生には、天の喜び、永遠の人生、より豊かになる働きがあります。肉体のために植える者は肉体から腐敗することを求めることになると言われています。私たちには自分で生きる工夫があります。自分で考えるものがあります。このように生きなければならない、それがより適切で、これがより良いという考えがあります。 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。」(出エジプト記33:3-4) 神様がモーセを召されて教えてあげたかったのです。だからシナイ山で十戒を与えます。その時、山の下には次の歩みに悩む人々がいました。モーセが自分たちを険しい荒野に導き,死なせようとすると言いました。 山に行ったモーセは来ないので、アロンを捕まえて次のステップを話します。そのような過程で金の偶像を作ります。その光景を見てモーセが話します。神様があなたたちを出エジプトさせたのは、神様のご意志と恵みであり、神様の許しによってなされたものだと言います。 神様が許され、神様が約束を守るでしょうが、神様は同行しないと言われます。乳と蜂蜜が流れるカナンの地、そこまでは行くようにするけど、神様は一緒に行かないと言われます。怖い話です。 ところが、このことが実際の私たちの生活でそのまま起こっています。神様が許されたことだからといって、神様が全て同行されません。神様が教会を許されたと、教会を建てる過程に神様がすべて同行されないことができることを知っています。それで、私は震えと恐れで私を兼ね備えて思い直します。 生かして下さいと、恵みを求めて祈ります。皆さんも一緒に来て一緒に行ってほしいです。 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、(出エジプト記32:23) モーセはシナイ山で神と共にいます。 しかし、その時、人々は私たちのために私たちを導く神を作ろと言います。人々の不快な感情が明らかになります。「このモーセ」という言葉から民の不快な感情をそのまま見ることができます。私たちのために言うのはどういう意味ですか? 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1:17) 信仰から信仰に至るのが福音です。信仰で出発した私たちの次の歩みも信仰です。神様に心をささげたその道からまたまた神様に心をささげる別の道に行くというのです。それを見て、義人は信仰によって生きるということです。 イスラエルの人々は荒野で大変でした。苦労したそうです。それで時にはエジプトにいる時が楽だと言います。それでも、彼らは神の超自然的な働きで信仰の一歩を踏み出しました。ところで荒野に来てみるとダメでした。カナンの土地は見えません。導かれたモーセは神に会うと言って消えてしまいました。そして来ない。それで次のステップが心配になりました。 皆さんもイエス様を眺めてイエス様を信じると言います。ところがある日、皆さんの人生が詰まってしまいました。次の足を運ぶ道がないようです。信仰は何ですか? 心をイエス様にささげることです。心が嵐の中にあるようになれば、イエス様を呼んだとしても、イエス様はあなた方の信仰がどこにあるのかと言われます。イスラエルの人々は私たちのために私たちを導いた神を作ろと言います。信仰から信仰に至る道を知らないということであり、この地で何かならなければならないということです。 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、(出エジプト記32:25) 横柄だと大変です。自分のためと言って、自分が横柄に振る舞うか心配になります。信仰の歩みの邪魔になるのが横柄です。信仰を話しながら横柄で、そのように勧めるのではないか振り返らなければなりません。 実際、皆さんは子どもたちが横柄するようにお勧めします。信仰をよけて通りながら信仰のように話します。生命を語るようですが、教会に分裂を生み出すのも同じ話です。横柄することを見なければなりません。悔い改めなければなりません。 モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」(出エジプト記 32: 29) アマレクを燼滅するように言われました。カナン七族を滅ぼすように言われました。私たちは心に抱いているものがあります。絶滅しないと、むしろそれが私たちを殺します。29節 みことばを見れば、滅びたそのすべての内容が献身だと言います。 奉仕そのものが献身ではありません。献身した人のその実で奉仕が出てくるのです。献身は埋めることです。献身はアマレクを滅ぼすことです。私たちの心の中で暗闇を滅ぼすことが献身です。一生懸命奉仕することが献身ではありません。心に満ちているそれが絶滅する献身なしに、ただ奉仕すれば問題が大きくなります。 なぜ心に心配があり、不安があるのですか? 献身しなかったからです。心の中にあるアマレクを絶滅しなかったからです。カナンの七家族を滅ぼさなかったからです。 献身したら愛は自然に出来ます。奉仕は自然に出来ます。一緒に合力して最善を成します。奉仕の量と質は問題ではありません。アマレクとカナンの七つの族を滅ぼさなかったので、献身ができなかったのです。献身がある時、自然に生きるのではなく、神様のみことばを食べ、真理で結論を結ぶ神様の人として生きていきます。 [福音祈りの新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音の祈りの新聞。>情報とお問い合わせ:press@gpnews.org

創作クリスマスキャロル「雪が降ってる」

イエス·キリストの誕生を称えるクリスマスの嬉しい知らせを伝えるための創作クリスマスキャロル「雪が降る(Snow is falling down)」がソプラノのチン·ユンヒ、テナーのリュ·ジョンピルによって最近発表された。 この曲は作曲家であり編曲家であるチャン·ミンホ教授の曲に声楽家で劇作家、作詞家であるイ·スンウォンの歌詞で世の中のすべての痛みと悩み、心配を白い目で覆ってあげたい気持ちを込めた。 ロシアのレニングラード州国立交響楽団の演奏で曲の完成度を高め、グラミー賞クラシック部門最高技術賞を受賞したサウンドミラーコリアのファン·ビョンジュン代表がマスタリングを担当し、多くのキリスト教音楽アルバムのプロデューサーとして活動したチャ·ヨンウン代表(ナヌミュージック)が製作を担当した。 音楽学博士でグリ聖光教会聖歌隊指揮者であるチャン·ミンホ教授(サンミョン大学ニューメディア音楽学科)は「この曲はイザヤ1章18節の『 お前たちの罪が 緋のようでも、雪のように白くなることができる』という聖書の言葉を黙想して、戦争と暴力、不義の中で苦しむ人々を慰め祝福と平和の便りを伝えるクリスマスプレゼントになることを願う」と曲を紹介した。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[GTKコラム] ヨセフのように成功するキリスト教徒?

ヨセフは聖書に出てくる人物で、兄たちの嫉妬心でミディアン商人たちに奴隷として売られたが、神様が共におられてポティファル将軍の家の管理者になった(創世記37)。ボディバル将軍妻の誘惑に屈しないと、監獄に収監されたが、彼は監獄でも看守長の信任を受け、獄中囚人を管理する管理者となった(創39)。 そして、最終的にはエジプト王であるパロの夢を解釈し、パロの信任を受けてエジプトの首相になった(創41)。7年間の豊作が過ぎ、7年間の凶作が来た時、ヨセフの兄たちも食べ物がなくてエジプトまで来て穀物を買うことになるが、この時彼らは総理になった自分たちの弟ヨセフの前にひざまずくことになる(創42)。 ヨセフの兄たちは彼が自分たちに復讐をするのではないかと心配したが、彼は兄たちを許してこのように話した。 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5) 死んだと思ったが、生きてエジプトの首相にまでなったヨセフによって、彼の父親をはじめとするすべての家族がエジプトに来て暮らすことになり、エジプトのゴセンの地に定着することになった。 このようなヨセフを見て、多くのキリスト教徒は夢を見る。神様の意思が天のように地でもなされることを願うのではなく(マタイ6:10)、自分がヨセフのように偉大な人物になることを夢見る。ある説教者たちは、神様が共に居られたらヨセフのように成功できるとし言いながら若者たち、起業家たち、中小企業社長たちの心に希望の火種をつける。彼らは成功して家族を含めて多くの人を食べさせる人になるという大きな夢を抱けと言う。この文を書いている筆者の英語名はヨセフだ。そして、この英語の名前をつける時、彼の心にヨセフのように世の中で成功しようとする気持ちがなかったとすれば嘘だろう。 筆者がこの文で見せたいのは、まさに私たちの心に非常に巧妙に定着している欲と傲慢だ。私たちは生まれつき他人と同じような生活をしたがらない。事業をするならば小企業ではなく大企業を築きたいと思い、先生をするならばある地域の高校の先生ではなく有名なスター講師になりたがる。牧師も列外ではない。神学校の卒業生たちは、ある地域の小さな教会の信実な牧師ではなく、一時代を風靡する有名な牧師になることを望んでいる。 筆者はキリスト教徒が社会的に特に人気のある有名人になること自体を批判しているわけではない。どの時代でも、誰かは有名になり、自分の職業で非常に有能で人気のある人物になるだろう。しかし、問題は特別に社会的または経済的に成功することを目標に生きていくキリスト教徒の若者たちの心だ。私たちは世の中で社会的、経済的に最高になることを人生の目標にして生きてもいいのか?成功したヨセフのような人物を見て、私たちは大きな夢を見て、ただ一人の偉大なこの時代の偉人になることを願ってもいいのか? 真のキリスト教徒の目標 キリスト教徒が誰かを簡単に表現すると、彼は自分の罪を悔い改め、自分の罪を代わりに負って十字架で亡くなったイエス·キリストを救世主と信じ、今や自分の十字架を負ってその代価として死ぬとしても復活した主のみ言葉に従って生きていく人だ(マタイ16:24-26)。それなら、キリスト教徒の人生の目標は非常に単純だ。それは、主の言葉に従順する人生だ。 目標は旅行者の目的地と同じで、目的地は旅行者の行く方向を左右する。私たちの目標が本当に神様の意思がなされることなら、この目標は私たちが真実に(コロサイ3:9)、責任感を持って(コロサイ3:22)、情熱的に(コロサイ3:23)、勤勉に(箴言21:5)、自分に与えられた才能と機会を十分に活用して職業を得て仕事をし、福音を伝え(マタイ28:18-20)、主の中での兄弟·姉妹を愛するように(ローマ12:10)導くだろう。だから、自分が神様がくださった救いの恩恵を価値なく受けた者として、今日一日主の言葉に従って最善を尽くして生きているならば、どんなに収益があってもどれほど社会で認められるかに関係なく、すでに目標を成して生きているのだ。そして、このように生きていけば、私たちはますます経済的または社会的な結果に対する執着から自由になれる。 しかし、逆に私たちの目的が年俸10億も最も有名な俳優になることだとすれば、私たちはどんな手段と方法を動員してでもそれらを得るために慌てるのではないか?そして成功のために嘘もつき、悪い手段を使って事業をしながら「成功して献金をたくさんすればいい」と、考えて怒った良心を鎮めようとするのではないか?そんなに病気の良心を抱いて日曜日に教会に行って、無駄に涙をぬぐっては何事もなかったかのように、再び私たちの目標を達成するために罪を取り上げ、良心をバラバラに引き裂いてしまうのではないか? この時代の夢多き若者に訴える。私たちの夢は、今日キリストの言葉に従うことだ。今日、この文を読んだら、静かに自分自身を振り返ってほしい。今日、キリストの言葉に従うために全力を尽くして生きていくキリスト教徒は、毎日成功している最中だ。しかし、成功した未来の自分の姿を眺めながら全力を尽くして生きていく若者たちは、主の意思(言葉)を無視する人か、あるいは最初から生まれ変わったキリスト教徒ではないかもしれない。 1912年4月15日、タイタニック号は6回にわたる警告を無視して航海を続け、氷山にぶつかって沈没した。彼女の華やかさは一瞬にして暗い海に姿を消したのだ。私たちの人生も同じだ。今この文のような警告の言葉を聞いた時、心を謙虚にして良心の声に耳を傾けなければならない。これまで目的地を誤って設定して誤った道に進んでいたなら、今悔い改め、主に向かって正しい方向に旋回することを切に願う。 マタイによる福音書16章24-27節 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 [福音祈祷新聞] キム·イェジュン|マスターズ神学校でThMコースを修学中であり、現在米国LA近郊のグレンデールにあるグレース聖書教会で青少年使役を担当している。 GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

進化論に基づく薬物療法vs創造論に基づく栄養療法

英国海軍は壊血病という恐ろしい病気で100万人の兵士を失った。 そんな彼らがどうやって壊血病を治療したのだろうか?ビタミンCだ。当時はビタミンCという名称を知らなかった。しかし、ライムを食べるとその病気が起きないことが分かった。今、私たちが経験する多くの病気はビタミン不足によって引き起こされる。私たちは食べているもののために死ぬのではなく、食べていないもののために死ぬ。ビタミンBを十分に摂らないと、脚気になる。 聖書は語る。 「人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。…··· パンは人の心を支える。」(詩編104:14~15) 人々は小麦からビタミンE、レシチン、オメガ3脂肪を取り出し、白い小麦粉でパンを作れば、パンが数ヵ月間も維持されることを発見した。しかし、その後、人々が心臓麻痺と中風と循環障害などで死に始めた。簡単な公式だ。パンが白いほど人間の寿命を縮めた。白いパンが私たちを殺すのではなく、そのパンの中にない成分のためだ。神は心臓を強くするためにパンを作った。しかし、パンを作って売る人たちは、その日作ったパンの半分を棚で腐って売ることができないのがもったいなかった。それで収益を高めるためにパンを長持ちさせる方法を考案し、このような結果をもたらした。 健康に対する二つの哲学がある。一つは進化論に基づいた薬物療法だ。体は数百万年間偶然集まった化学物質に過ぎないため、病気を治療するためには化学物質をもっと入れればいいということだ。頭が痛いとき、医者はアスピリンを飲むように言う。しかし、考えてみなければならない。何が頭を痛めたのか? アスピリンが足りなくて頭が痛いのかな?私たちは原因ではなく症状を治療している。 例えば考えてみよう。高速道路を走行する時、燃料タンクに明かりが点いたら、私たちは2つを選択することができる。問題の原因を見つけて直したり、灯を消してしまったり。しかし、灯を消したらそれは愚かなことだ。灯は問題があるというサインだ。頭痛も体の問題があるというサインだ。マグネシウムやタンパク質欠乏など。しかし、最近私たちが飲んでいるほとんどすべての薬は灯を消す役割をするだけだ。問題の原因を解決するものではない。薬に無条件に反対するわけではないが、今の私たちの薬依存度は非常に高いのだ。ほとんどすべての病気は欠乏症だ。ビタミン、ミネラル、オイルなどが不足しているのだ。私たちの体は16種類のビタミンと60種類のミネラル、そして3種類のオイルが毎日必要だ。 すべての病気は欠乏症 1845年、オーストリア·ウィーンのシモワイズ医師は、病院で出産した女性の30%が死亡していることに驚いた。この医師は、医師たちが死んだ産婦を検査した後、手を洗わずに他の産婦を検査しに行くという事実を発見した。その時は微生物について知らなかったので衛生に対する概念がなかった。彼は自分のいる病院の医師たちに、死んだ死体を検査した後は必ず手を洗うべきだと主張した。すると死亡率が2%に低くなった。 3000年前、レビ記で神様がモーゼに言われた。「死んだ死体に触れた後は汚れたので、他の人に触れる前に手と体を洗うよう人々に言いなさい。」神様は科学が微生物を調べる3000年前におっしゃった。 医学に関するもう一つの哲学は創造論に基づいたものだ。これは体が神様によって設計され、神様が私たちの必要を満たす食べ物をくださったということだ。これを栄養療法という。野菜を食べて死ぬ人の割合は毎年0%だ。そして毎年3人程度がビタミンを飲んで死亡し、320人程度が非処方薬を飲んで死亡する。9000人程度が食中毒で死亡し、9万~11万人程度が正しく処方された薬を飲んで死亡する。これは誤って処方された薬を飲んだ場合を除いたものだ。ベトナム戦争で10年間死んだ数より2倍になる人々が毎年処方された薬を飲んで死んだ。 <つづき>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ

ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

滞りなく流れる十字架の福音

キリストの中で完全な教会(8) 「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマの信徒への手紙6:12,13) 天地の歴史を変えるためには人を変えなければならず、人を変えるためにはその人の中心を変えなければならない。その中心を変える道は生まれ変わる道しかなく、献身する道しかない。それを可能にしてくれるのは十字架福音だ。神様と私たちの間のすべての問題を解決し、神様の完全な知恵と神様の完全な能力が充電されたのがまさにイエス·キリストの十字架福音だ。したがって、福音を聞かせるだけで御霊がこの福音の真理を私たちの魂の中に聞かせさせ、真理が照らしてくれる道に沿って行くようにする。主はガルボリ丘の十字架で死ぬことで罪=私だったこの悲しくて不可能な運命の病んだエゴをきれいに処理してくださった。そして復活されて神様の義と律法を全て成し遂げた。この事実を信じて、信仰から信仰へと従順に進む時、奇跡を見ることになる。 したがって、イエス十字架の福音なら十分だ。教会はこの福音を命のようにつかんで叫ばなければならない。神様の永遠の栄光を慕い、天国が実際になった人々が一体となった教会になる。罪を憎み、キリストの中で兄弟になった生命で、ただ主の栄光のために教会に仕える。これこそこの世で私たちが享受する天国だ。このような教会を通じて、主は我が民族を変えることができる。何も言わなくても自然と宣教的存在になる。 ところが教会に通いながら福音を信じながらも、最も重要な救援と私の人生の主権を譲り渡した献身の分岐点がなぜこのように私たちの中に薄いのか。まさにこのすべてのことを可能にするようにされたのが十字架復活の福音だ。十字架の復活の福音が実際に直面したら、この変化が起きざるを得ない。 そのように変化した聖徒と聖職者、教会はその能力でキリストが全てを主張することができる。キリストの救いの福音が滞りなく流れていく教会を誰が阻むだろうか。聖徒の数や教会の建物や教団とは関係ない。この十字架福音が力になった聖徒と教会を通じてのみ、福音の能力が力強く流れ、私たちの周辺の人々を変え、民族の流れを変えることができる。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 神様の愛(2): 神様の愛の中に内在する裁き

神の愛は私たちに大きな慰めを与えてくれる。しかし、それは人々が言うような慰めではないだろう。前にも言及したように、神様の愛は神様と私たちの関係について聖書が言うすべてを覆ってしまう神学的な毛布ではない。神の愛に対するこのような近視眼的アプローチは、しばしば愛のより広い意味を無視してしまう。具体的に言えば、神様の愛に裁きが内在しているという事実を見過ごしやすい。 愛と律法主義 多くの信者はキリスト教徒の人生を「神を愛し、人々を愛すること」と単純に言う。影響力のある大型教会の人気スローガンであるこの言葉は、貴重な優先順位を簡単なことに見せる。この簡単な文章は福音を誤って要約したものだ。 このような愛に対する誤解はイエス様当時のパリサイ人たちに蔓延している信仰だった。ルカによる福音書はこの問題と関連した事件を詳しく語っている。 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10:25-28) もしあなたがここまで読んだら、キリストが今天国に入る横門を開けたと考えることになるだろう。しかし、ジョン·マッカーサーは主がこの一節でおっしゃっている真の核心を次のように説明した。 ‘イエスは律法を守ることによって救われる人々がどこかにいるという話をしなかった。逆に律法は完全で完璧な従順(ヤコブの手紙2:10)を要求し、不従順する人々に肉体的、霊的、そして永遠の死を約束(エゼキエル18:4,20; ローマの信徒への手紙6:23)するため律法を守ることは絶対不可能だと指摘されたのだ。’ 律法主義者たちの救いに対する律法主義的な接近を確信させるよりは、キリストは彼の誤った敬虔さとその法を完遂することが不可能だということを説明しながら警告された。しかし、書記官はその点を理解していなかった。その代わり、彼は愚かにも自分の義に溺れて、とんでもない質問をした。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(ルカによる福音書10:29)。 ジョン·マッカーサーは書記官の愚かさと無知について次のように説明した。 ‘この時点で書記官はルカによる福音書18章13節のセリのように、彼自身が神様が要求する愛ができないことを認識し、御恵を請わなければならなかった。しかし、逃げ場もなく追い込まれた彼には悲惨な傲慢が続いた。彼は自分を否定するのではなく、自分自身を「正当化」しようとした。彼は告白しなかったが、きっと心の中で罪に対する確信が芽生えたのだろう。しかし、彼は内面の自覚を軽蔑し、表向きは義で価値のある人だと確信した。’ 今、多くの教会で「神様を愛し、人々を愛する」ことができる適切な能力を主張しながら律法主義のような自己確信をよく繰り返すのを見る。 しかし軽率にもそのスローガンに慣れ、神様の愛を見習えという聖書で繰り返す勧告は見過ごしてしまう。律法師が自分を正当化しながら律法の途方もない重圧感を感じなければならなかったように、主の戒名に対する正直な反応は確信と罪悪感で敏感に反応することでなければならない。 他人を愛せないこと 弟子たちにした「私が君たちを愛したように愛し合え」(よはねの福音書13:34参照、15:12)とはキリストの命令は非常に単純に見える。 しかし、私たちがキリストの愛の深さを考える時、そして彼がその愛を表すためにされたことを考えてみれば、それははるかに大きな挑戦になる。率直に言って、そのような愛を実践することは不可能だ。 キリストの愛は、世界のどの愛よりも自己犠牲の模範を示した純粋な愛である。福音には彼が救おうとする民に対する彼の驚くべき愛の手本があふれている。そしてキリストが私たちを愛したように他の人々を愛さなければならない義務を罪悪感として感じないならば、私たちはイエスがその愛のために支払った代価が何なのか全く知らない人だ。 他人を愛する私たちの能力にどれほど欠陥があるかを考えてみろ。すべての利己的な衝動、自己保護のための努力、同情心で行うすべての慰めの方法はイエス様の愛と矛盾する。もし私たちが正直なら、私たちは他の人をイエス様のように愛したことが全くないということを認めざるを得ないだろう。私たちがキリストの愛を理解していくほど、私たちの罪悪のためにその方の手本に従わない失敗はさらに大きくなるだろう。 神様を愛せないこと 神を愛することも大して違わない。イスラエルと契約を結んだ初期から、主は民の心の中に最上のものを要求した。申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と明確におっしゃった。 キリスト自身はその言葉を最大の戒名と見なした(マタイによる福音書22:36~38) しかし、立ち止まって考えてみよう。私たちは本当に神を他のなによりも愛しているのか? あの方の栄光が私たちの偉大な望みなのか?彼を敬拝する私たちの礼拝が世間のことから自由なのか? 私たちの最も大切な宝物が天にあるのか? 私たちの愛はそも方に固定されているのか? 主の志を成すことが主な動機なのか? 彼に従うことが私たちの最大の喜びなのか? 私たちはその方に礼拝をしながら過ごしているのか?私たちのすべての人生が彼に仕え、敬拝し、栄華になることに献身しているのか? それは人間と神の関係の本質である。アダムの罪は私たちを神から切り離した。キリストの中でのみ、私たちは回復することができ、永遠に父と完全で愛らしい交際を享受することができる。しかし、今神様を愛せという命令は、私たちの堕落した肉体の無能力と不正さのために私たちの罪を絶えずに思い出せる御言葉である。 焦点は何か? 神様の愛に対する正しい理解は、私たちの霊的成長と敬虔のために必ず必要なものだ。自己欺瞞的な不信者たちにとって、神様の愛の深さは真の霊的状態の深刻性に対する悟りにならなければならない。 「神を愛し隣人を愛しなさい」と単純化された福音は全く福音ではない。神の律法を履行する能力に対するバリサイ人的な確信より、あるいは最も単純な要求でさえ、彼らは肉体の致命的な欠陥を理解しなければならないのだ。彼らは罪悪の重圧感を踏みにじられるように経験しなければならず、自分の意を覆い隠している傲慢さを破らなければならない。彼らはガラディア教会への手紙の中でパウロが説明した変化を経験しなければならない。 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤの信徒への手紙 3:23-24) 簡単に言えば、彼らは謙虚に心から悔い改めなければならない。不注意な信者も同様に、神の愛によって謙遜されなければならない。救いは粗雑な神学やわいせつな生活に対する言い訳ではない。神の民は人生を通じて彼の愛を表わすために、その愛と戒めを正しく知り畏敬の念を持たなければならない。 私たちがどれだけ不足しているかを認識することが、私たちの成長と敬虔さの原動力になる。私たちはキリストにもっと似るためには節制しなければならず、周りの人々に彼の愛の手本を見せる人生を送らなければならない。 また、それがキリストへのより大きな愛に拍車をかけなければならない。私たちに要求されるこのすべてのことは究極的に愛の完全な標準であり、愛の完全な表現であるその方に焦点が合わされなければならない。その方だけが愛が要求するすべてを完全に成し遂げた唯一の方だ。 その方の中で私たちは神の愛の真実と完全さを発見することができる。それが私たちが次の時間に見ていくテーマだ。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

スペイン、静かな風景の裏に吹く性転換の風

地中海の明るい日差しが差し込むスペイン南部の港町、マラガ。1年のうち雨の日が50日にも満たないほど日差しが豊かで、冬が暖かい都市だ。宿舎から見下ろしたここトーヨー市場は、些細な物を売買しながら旅行客の目を引いている。マラガの午後は平穏極まりない。 しかし、何事もなかったかのように穏やかなスペインの風景の裏には同性愛、性転換の風が吹き荒れている。スペインは12月22日、クリスマスを3日後に控えて16歳以上の未成年者も医師診断なしに性転換を可能にした。スペイン下院が16歳以上であれば、医学的所見がなくても誰もが法的に性別を変えられるよう、国家身分証の性別変更手続きを簡素化させる法案を通過させたのだ。これまでは性転換者が法的な性別を直すためには性別違和感を経験しているなど、複数の医師の診断が必要だったが、これからはこのような条件がすべて必要なくなった。原案通りに上院を通過すれば「転換療法」が禁止され、LGBTを狙った攻撃も処罰できる。主がくださった地中海の日差しを受けるように、創造秩序の美しさを受けて享受するスペインに回復することを願う。 「私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブの手紙5:19~20) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

キリストの中で完全な教会(5)

「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

危機の時はちょっと立ち止まって

キリストの中で完全な教会(2) さまざまな 道に立って眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、 魂に安らぎを得よ。(エレミヤ書6:16) しばらく立ち止まって、主の呼び掛けに私たちの焦点が正確に合っているのか。神様の呼びかけを完全に理解して目線を変えず、妥協せず、変質せずに正しく立っているかを調べなければならない。 危機に瀕した教会が一番先に調べなければならないことは、神様が保障してくださったその心強い基礎の上に立っているのか! もしかして砂の上に家を建てていないか! ということだ。 主は砂の上に家を建てるな! 言われる。福音を聞いてその福音を行わない者は、必ず砂の上に家を建てる者のように愚かだから危険な目に会えばその基礎が明らかになって激しく崩れると主は言われた。 私たちの人生も同じだ。主は「拠り所がこわされたら、正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)おっしゃる。自分の人生を耐えて頼りにしている居場所がどんなものなのかを見なければならない。自分の人生、自分が主人になって頼りにして、何らかを基盤にした人は、それが崩れれば終わりだ。ところが義人は言う。「すべてが揺れる日、拠り所が崩れれば私の避難所である主のところに駆けつけろ。’ 自分の人生の拠り所を今どこに置いたのか!教会は果たしてどこに立っているのか!世の中の世論、思想哲学、あり集団の教権という場所に立っているのか! 主は教会をそのような場所に建てたことがないと言われる。教会の敷地は永遠の岩であるイエス·キリストである。イエス·キリスト以外の何も教会の敷地にはなれない。教会はただイエス·キリスト、その十字架福音の敷地に立っている。神様が夢見る教会は建物や組織ではなく、まさに神様の呼び出しを受けた群れ、すなわちイエスキリストの十字架を通じて神様の聖なる子供に生まれ変わった神様の民たちだ。そして一人一人を呼んだビジョンの最後は「すべての人を キリストにある成人として 立たせるためです。」(コロサイ人への手紙1:28)と言われる。 神様が夢見る教会は十字架に生まれ変わった民たち 教会は生命力のある、頭になったキリストの体になった生命の有機的共同体だ。キリストの生命力が各肢体ごとに流れ、すべての肢体の中にイエスの生命が充満して育ち、キリストの成長した分量に至るまで、キリストの中で完全な者として一人一人が建てられるのが教会を呼んだ神様の呼びかけだ。もしかしてこの目標を逃しているのではないか! 果たして韓国教会の聖徒たちは、この呼び掛けの目標にふさわしいように、その目標に向かって育っているのかを見なければならない。 真の信仰で生きている新しい被造物となった聖徒で構成された聖なる教会、世の中と罪悪に勝って、自分に勝って、最後の勝利を勝ち取る神様の聖なる主の教会! これがまさに教会に対する神様の呼びかけである。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい

福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?

あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

止まった今、善良な道で行う絶好のチャンス

輝く信仰(1) 一生に一度も経験できない一つの課題で、世界中のあらゆる人が一事多難な時間を過ごしている。その一つは、コロナ事態だ。 肺炎·ウイルス菌のためにパンデミックという世界的大流行が起こった。コロナ19は、巨大な世界的な障壁となって世界中を止まらせた。 立ち止まるというのは容易なことではない。生まれながら泣き出し始めた人生が最後に息を引き取るまで自ら人生を止めることは事実不可能だ。生まれた以上、まるでランニングマシーンの上に立っているように休まず走り続けなければならない。生存競争に巻き込まれたりもする。周りからただではおかなかったりもして次から次へと押し出される。立ち止まることのできない人生、人それぞれ千差万別だ。しかし、こんな人たちが同時に立ち止まる事態が起きたのだ。 主はこう言われる。“さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、魂に安らぎを得よ。”(エレミヤ書6:16) 息をつく暇もなく世間の風潮に押されながら、ブレーキのない自転車のように止まることを知らない人生を生きてきた。どこへ行けばいいか、誰に聞く暇もなく、今どこへ来ているかを点検してみる間もなく生きてきた人生。なぜ生きるのか、このような究極的な質問は後回しにして食べなければならず、取り残されないために絶えずに猛烈な生存競争に押されて生きてきたのが私たちの人生だった。問題は、大半がそのように押しのけられ滅びてしまうということだ。 もし立ち止まって考えてたら、自分がどこへ行っているかさえ分かっていたら、続いて行かなかっただろう。自分が誰だかを知っていたら空しい事を働いたことはなかっただろう。問題は立ち止まって一番重要な質問をしてみることができなかったこと。これこそ人類全体が滅びるしかない共通のテーマだった。その時主がおっしゃる。’止まれ!′ ′あなたの人生、うまくいっていると思うけど止まれ!′不幸にも、私たちは自分の意志で止まることができなかった。 しかし、今、強制的に止められた。この一年間の特別な意味といえばすべての人が一緒に物理的に止まってしまったことだ。忙しく目標に向かって走る時は左右を見る暇もなかったが、立ち止まってみると、ようやく見えなかった状況が見えてきた。我々にとってあれほど巨大に見え、しっかりしていた世の中の実体が丸裸になったように明らかになった。 世の中の事情が、ただ順調に進む時は、まともに進んでいるようで、その世の中以外には見えるものがなかったが、世の中が止まって見ると、私たちがそんなに信じて頼った世の中というものが、いかに虚しく信じられないものであるかを目にした。 聖書がいくら話をしても闇の中で走り、世の中の享楽と贅沢と成功に狂って走り、なんと神様よりもずっと実在のように感じられた世の中だった。しかし、そんなに信じていた先進文明の医療システム、国の力、国際関係などがウイルス一つにどれだけ力なく虚しいかがすべて明らかになった。世の中の実体が見え始めたのだ。今こそ、我々が歩んできた道に立って見て、昔の道、すなわち善良な道がどこなのかを知り、そこへ進む絶好のチャンスであるのだ。 (2021年1月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

より大罪人に託した恵みの務め

より大きな罪、より大きな恩(7) “わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない. ”(へブル人への手紙10:38) 私たちは後に退いて滅亡するような者ではありません。ただ魂を救うことに至る信仰を持った者だとおっしゃる。背水の陣を敷くという意味である。後に退く余地を考えてはならない。帰る道はない。福音の真理を信じる信仰以外は滅亡しかない。 このような強い心で帰り道を断ち切った人、帰り道のない人、その人はもう迷ったり悩んだりしない。なぜなら、一つの道しかないからだ。数多い挑戦の中で、より大きな罪人に臨んだより大きな恵みを私たちに与え、決してためらわないようにする。 私たちは必ず神の前でその栄光を手にするだろう。 驚くべきことに、パウロは言う。“わたしを 强くしてくださった、わたしたちの主キリスト · イエスに感謝しています。この 方が,わたしを 忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。”(テモテへの第一の手紙1:12) これは罪人の中の怪獣だった私にその恩恵がどれほど大きいかを知ってもらうためである。パウロは誹謗者であり暴行者であり、殺人者だった自分を神様が忠誠心をもって受ける資格がない自分に恩としてこの職分を任せてくれたと告白する。一番大きいの罪人であることを知る者に、表現できない恵みの福音の使命を託す。 イザヤ書6章には、ウジヤ 王が 死んだ 年、絶望の中で聖殿の前でうつぶせになったイザヤに、天の栄光の玉座を見せてくれる場面がある。 神様の偉大の前に立つイザヤは”災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも,わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。”と嘆く。その時、神が天使を送り、燃えている炭を持ってきて彼の唇に当てて宣言する。“見よ、これがあなたの 唇に觸れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。”大きい恩みを受けた彼に神様がおっしゃる。”誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。” (イザヤ6:8) ‘この世をこのように愛し、一人っ子を与えてくれて想像もできないこの大きな恩みの十字架の福音を誰が知って、この言葉を持って希望のない者たちに行くのか’と主が尋ねる。絶望した彼を神の恵みで清潔にする。彼は言う。’わたしがここにおります。わたしを遣わしてください’ 福音の前に立って希望のない私を救ったこの大きな恩みの前に立つ者は、主の栄光の呼びかけに答える。 “しかし,わたしが憐れみを受けたのは,キリスト · イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり,わたしがこの方を信じて永遠の 命を得ようとしている人々の手本となるためでした。”(テモテへの第一の手紙1:16) 誰がもっと大きな罪人ですか? 誰が何の望みのないあきれた罪人ですか? この感激に捕らわれた罪人の中の怪獣、福音のために一生を捧げたパウロが監獄で叫ぶ。私は罪人の中の怪獣だ。真実である。すべての人が受けるに値するこの言葉よ。キリストキリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった。これは一人の告白ではない。すべての人類の告白でなければならない。恩みの福音だけが生きて居られる主のもとへ帰れる唯一の道だ。あきれるほどの危機と悲惨な罪の中で我々を呼んだこの福音を宣言し、忍耐と信仰をもって進もう。 (2018年5月)<終わり> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org