「私がする」··· 神に反逆を選んだルシファー
神様が世の中の万物を作り、その結果を見ながら「とても良い!」とおっしゃった。すべてが完全な秩序と調和した。そこ,エデンの園は苦痛も、病気も、悲しみも、争いもなかったが、何よりも死がなかった。神様と人の間は愛があふれる親密な関係だった。そこは人が住むのに最も理想的な場所であり、人はここでこの上なく幸せだった。 しかし、今日この世の中は苦痛と病気と息詰まる生存競争が支配している。貧困と災難、テロと戦争が世界各地を支配している。人の世界から動物の世界に至るまで、生きること自体が休まない闘争になってしまった。どう見ても今の世の中は住むのにあまり良い場所ではない。いったい何があって、世の中がこんなに変わってしまったのだろうか? 聖書によると,ルシファーの傲慢さはその事件の発端であるという。優れた美しさと知恵と能力が天使ルシファーを傲慢にさせ、傲慢は彼があえて考えることさえできなかった貪欲を抱かせた。 「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地へと切り倒された。諸国民を打ち倒した者よ。お前は心の中で言った。『私は天に上り神の星々より上に王座を高く据えよう。そして、北の果てにある集会の山に座し雲の頂に登りいと高き方のようになろう』と。」(イザヤ14:12~14) ルシファーの問題は(私が)天国を掌握しようとする欲望、すなわち「極めて偉い人」と対抗しようとする反逆の心から現れた。彼は神の地位を占め、天にいるすべての天使の支配者になろうと決心した。ルシファーの心の中の傲慢さは、抑えきれない欲望で燃え上がった。傲慢になったルシファーは、自分の意志で神様に対抗することを選択した。神様は天使を作る時、ロボットのような存在ではなく完全な自由意志を持った存在として作られた。神に仕えるということは、自分の意志で従順を選択することをいう。しかし、ルシファーの傲慢さは天使のレベルで満足せず、ついに神に対する反逆を選択させた。神様はこのようなルシファーの選択を「罪」と言われた。 [福音祈祷新聞] エマオの道で出会った人 (ジョン·クロス)。エヌティエム出版部。 2006)から抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org
[TGCコラム] 神の贈り物、「芸術」が偶像になる時
人の余暇はその人の価値体系と心の状態を把握できる良い素材だ。現代人の大部分が任せられた色々な種類の仕事と人生の重さから来るストレスから抜け出す各々の「仮想現実」または「気分転換装置」を探す。そして音楽、小説、映画、ドラマ、ゲームのような様々な芸術ジャンルが現実逃避の世界に彼らを誘惑する。では、キリスト教徒は何をしながら余暇を過ごすべきか? 休むべきかな? ぎこちない質問だ。 余暇の内容にキリスト教徒と非キリスト教徒の区分ができないためだ。ところがキリスト教徒はこの余暇と「休息」を敏感に考えなければならない。 休みは神様が創造の時から決めておいた「宇宙的リズム」だ。神様は御自分の形通りに創られた民も、女奴隷と男奴隷、客も、さらに家畜も7日目の日に休むよう命じられた(出20:10)。十戒に含まれたこの命令は数多くの律法条項の中でも最高の、憲法と同じ綱領だ。主が制定したこの安息日には、すべての場所に火もつけてはならず(出35:3)、さらには土地も安息した。土地は7年になる年に安息し、そのように7回の安息年を過ぎた翌年、つまり50年目の年を聖別してヨベルの年として守らなければならなかった。このヨベルの年には土地が播種なく完全な休息を取らなければならず、さらに担保された土地も「解放」されて帰ってくることができた(レ25:8-13)。 神様が制定した安息日法の目的は休みであり、「奴隷生活から解放」に対する記念だった。 そしてこの「休み」は「美しさ」を伴う。神様は美しい被造物をご覧になって「極めて良かった」と言われた(創世記1:31)。 審美的にも感情的にも、その美しさに対する鑑賞と楽しさの中で「休息」を享受したという意味だ。出エジプト以後の安息日には「罪からの解放」を記念する感激と喜びの美しさが加わった。すなわち、「休み」と共に影のように「美しさ」が存在した。 そのためか、芸術の「美しさ」はこの世の苦難と圧制から抜け出す、「休息の類似機能」をする。著名なドイツ哲学者ショッフェンハウアーは美学的経験を描写する際、イクシオン(IXion)というギリシャ神話の登場人物を例に挙げた。イクシオンは存続殺人をしてヘラを強姦しようとしたが、ゼウスから地獄で絶えずに回る回転輪にぶら下がる労役刑罰を受けた。ショーペンハウアーはイクシオンのこのつらい労役刑罰を引用して「芸術は『イクシオンの止まらない車輪』にぶら下げて回る世の中の苦痛の中で安息日」と結論を下す。[1] この言葉の正確な意味は「芸術とは苦痛の世界で少しでも安息を経験させてくれる神からの贈り物」ということだ。 罪で堕落した世の中は神様を離れ、残された美しさの痕跡のかけらを合わせながら偽りの休息を享受する。その栄光の席に代わりに座る常連は断然「芸術」だ。時には崇高で卓越しており、称賛するほど美しく、「意味」というものも伝えてくれる。時には深刻なほど心の波長を起こし、心の深い中心に入れるほど心臓をときめかせる。ジョン·パイパーは「神様の最も大きな敵はその方の贈り物」と話した。[2] イエス·キリストが「言葉の種と心の畑」比喩を聞かせながら「その他いろいろな 欲望が心に入り込み,御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)とおっしゃったが、ここで「その他いろいろな 欲望」は悪ではなくむしろ神様の贈り物だということだ。特に芸術の美しさがそうだ安息の代わりに安息の類似機能である「麻酔剤」として使われる芸術の驚くべき機能を見てみよう。私たちは日常で(1)審美的で感情的な美しさを享受し、(2)辛い労役のような人生から解放感を感じる。 実際、現代には絶望に陥ったキリスト教徒が逃避できる芸術的装置がたくさんある。映画やドラマ、小説、音楽のようなストーリーを持ったジャンルの中に逃避する。心が沈み絶望している時、ベートーベンとラフマニノフのピアノ曲を夜通し聞いた記憶がある。深い感情に触れる旋律から慰められ、その和声の進行に想像力を広げた。すべてを忘れることができ、世の中のどんな幸福感とも比べ物にならない感情的満足感を感じた。歌詞のない美しい楽器の音はこの上なく澄んでいた。神様からの贈り物だった。主の前に遠慮のない「休み」であり「心の旅」だと信じた。数日間、その美しさに溺れて止まることもできず、眠れないほど没頭した。そして現実に戻った時、その幸せはどんな善良な実も結ばなかったことを見た。神様と深く話し合い、その方にすべての心配を任せた後と音楽で麻酔させた自分の感情の結果を比較してみた。それ以来、二度と一晩中音楽に夢中になっていない。 美しさに常に敏感で誰よりも深く享受していた習慣が「神の敵」になりうることを悟った記憶だ。そして主がくださった芸術の美しさを主の中で享受する方法、そして優先順位に主との関係を先に置く方法、芸術で真の安息を得る方法を着実に練習しなければならなかった。 絶えずに神様の席に偶像を置かせるのが人間の心の属性だ。カルバンは「心は偶像の父であり、手は偶像の母だ」と話した。[3]心に抱いたものが善良であっても、それが人間の心のどこかで神様に対抗する偶像になってしまい、必ず言葉と行動で偶像という苦い実を結ぶことになるという意味だ。例えばこうだ。キリスト教徒がある映画を鑑賞し、その映画で神様の大叙事詩を賛美することができる。その映画で神の真理を発見することができる。その映画は永遠の希望を抱かせる媒体になり得る。しかし、その恩恵の経験を取り、ある瞬間その映画に没頭するようになり、結局神様の席にその映画を代わりに座らせることもできる。霊的分別力と鋭敏さがなければ、人間の心は偽りの美しさに明け渡しやすい。 理由は何だろうか? 本当の美しさと偽りの美しさがあまりにも似ているからだ。凄絶な努力と深い言葉の黙想、休まない祈りなしには見分けがつかないほど似ている。 キリスト教徒は福音の恩恵の下にいるが、「すでにそうだがまだ」この地で目標を目指して走らなければならない。神様が許可したあらゆる美しい芸術活動が誤った優先順位を持っているならば、神様に対抗する「偶像」になるという事実を忘れないようにしよう。私たちは毎日の文化芸術鑑賞に絶えず質問しなければならない。私はその作品を通じて「創造主三位神」の創造秩序を賛美して享受しているのか?私はその音楽で「福音」を享受しているか?私はそのドラマの視聴より神様との対話をもっと喜んでいるのか?祈りより絵の鑑賞に心を奪われてはいないか?詩の美しさより御言葉の真理を愛しているのか?私は休み時間には何を見て、何を聞きながら、何を手に握っているのか? 神様は最後まで私たちを勝利に導こうと私たちに着実に安息を経験させて居られる。安息日は「すでにそうだがまだ」の神の国の証として続いている。そして「安息日」と「美しさの経験」は完全で永遠な安息を眺める終末論的希望を生む。その願いは天国の栄光と美しさをしばらく味わいながら苦痛に耐える力をもたらす楽しさと喜びで現れる。すなわち、キリスト教徒にとって美しさの経験はこの地で享受する平和と今後臨む天国を通じて来るものであり、単純に苦痛を減らしてくれる麻酔剤としての芸術ではなく、平和と安息のある美的経験を願うことだ。 目標に向かって歩かずにいつも走り回っていた使徒パウロも例外なく、この地で規則的な安息を楽しんだ。そしてその休息は罪からの解放感に感謝と最後の栄光の美しさをしばらく味わうことであり、その安息の経験を通じて彼は「現在の苦しみは, 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは 思います。 」(ローム8:18)と宣言した。エレミヤも「馬と共に走る」主の戦士だった(エレミヤ12:5)。 だが、彼も永遠の栄光の安息を味わう「この地の安息」があったために止まらずに走った。心に刻んだ「満開のア ― モンド花の幻想」(エレミヤ1:11)が心の永遠な安息に向けた彼の印となった。ゼカリヤは聖霊の油で消えない美しい純金の燭台の幻想(ゼカリヤ4章)を、祭司が王の王冠を受ける(ゼカリヤ6章)永遠の国で享受する真の和睦の安息を心に刻んだ。 美しさの「安息」の目的を知ることは、もしかしたら人生を礼拝として捧げなければならないキリスト教徒にとって最も重要な認識の一つではないだろうか? 安息日の神学がキリスト教の核心教理の中心にあるように、毎日の人生で美しい芸術を楽しむキリスト人は(1)神様が創造した美しい世の中が神様の国でさらに輝くように繰り広げられることと(2)罪から解放されて永遠な安息を享受するという真理を記憶しなければならない。 [福音祈祷新聞] [1] [1] Arthur Schopenhauer, World as Will and Representation I, trans. E. F. J. Payne (New York: Dover Publications, 2000), 220。 [2] [2] John Piper, A […]
イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい
福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org