危機の時はちょっと立ち止まって
キリストの中で完全な教会(2) さまざまな 道に立って眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、 魂に安らぎを得よ。(エレミヤ書6:16) しばらく立ち止まって、主の呼び掛けに私たちの焦点が正確に合っているのか。神様の呼びかけを完全に理解して目線を変えず、妥協せず、変質せずに正しく立っているかを調べなければならない。 危機に瀕した教会が一番先に調べなければならないことは、神様が保障してくださったその心強い基礎の上に立っているのか! もしかして砂の上に家を建てていないか! ということだ。 主は砂の上に家を建てるな! 言われる。福音を聞いてその福音を行わない者は、必ず砂の上に家を建てる者のように愚かだから危険な目に会えばその基礎が明らかになって激しく崩れると主は言われた。 私たちの人生も同じだ。主は「拠り所がこわされたら、正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)おっしゃる。自分の人生を耐えて頼りにしている居場所がどんなものなのかを見なければならない。自分の人生、自分が主人になって頼りにして、何らかを基盤にした人は、それが崩れれば終わりだ。ところが義人は言う。「すべてが揺れる日、拠り所が崩れれば私の避難所である主のところに駆けつけろ。’ 自分の人生の拠り所を今どこに置いたのか!教会は果たしてどこに立っているのか!世の中の世論、思想哲学、あり集団の教権という場所に立っているのか! 主は教会をそのような場所に建てたことがないと言われる。教会の敷地は永遠の岩であるイエス·キリストである。イエス·キリスト以外の何も教会の敷地にはなれない。教会はただイエス·キリスト、その十字架福音の敷地に立っている。神様が夢見る教会は建物や組織ではなく、まさに神様の呼び出しを受けた群れ、すなわちイエスキリストの十字架を通じて神様の聖なる子供に生まれ変わった神様の民たちだ。そして一人一人を呼んだビジョンの最後は「すべての人を キリストにある成人として 立たせるためです。」(コロサイ人への手紙1:28)と言われる。 神様が夢見る教会は十字架に生まれ変わった民たち 教会は生命力のある、頭になったキリストの体になった生命の有機的共同体だ。キリストの生命力が各肢体ごとに流れ、すべての肢体の中にイエスの生命が充満して育ち、キリストの成長した分量に至るまで、キリストの中で完全な者として一人一人が建てられるのが教会を呼んだ神様の呼びかけだ。もしかしてこの目標を逃しているのではないか! 果たして韓国教会の聖徒たちは、この呼び掛けの目標にふさわしいように、その目標に向かって育っているのかを見なければならない。 真の信仰で生きている新しい被造物となった聖徒で構成された聖なる教会、世の中と罪悪に勝って、自分に勝って、最後の勝利を勝ち取る神様の聖なる主の教会! これがまさに教会に対する神様の呼びかけである。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音の前に立つ時が来た。
福音に対する二つの反応(7) 闇が勢力を拡大し、からしの種のような光を覆い隠そうとしても、闇は絶対に光を覆うことはできない。もちろん人間の弱さやミス、罪悪は必ず整理されるようになっている。しかし、主の福音が冒涜を受けることが続けば、私は生きている限り、すべての機会を持ってこの蛮行を全世界に知らせるだろう。 500年前の宗教改革当時、聖書を持ってれば燃やして殺した。すべての信者は魂の抜けた人として扱われた。しかし、マーティン·ルーサーが宗教改革の炎を起こした時に無知で何も知らないようだった平民が爆発的に起きた。それが宗教改革となり、その実を今我々が享受している。私たちは霊的な存在なので何が正しくて何が間違っているかは知っている。今はだまされないで違うことは違うと言って福音の前に立たなければならない時が来た。このままではいけない。福音を栄えなければならない。 主は生きて居られる。神様に立ち向かって真理に反する者は決して安全ではない。良心に逆らったり、神の聖なる真理の前に正しくない態度は決して安全でも正しくもない。マーティン·ルーサーのように、私たちは主の前で叫ばなければならない。「主よ、私がここにいます。私を助けてください。私は他のところに立つことはできません。」生きて居られる神様の国がからしの種のように小さく見えて麹のようでもその国は誰も耐えられない生きている神様の威力を表すだろう。神の統治が臨む私たちの中にある天国は、聖なる国であり、誰も汚すことはできない。十字架復活、福音の能力が私たちを聖なるものに導き、勝利させ、真理で結論を出させ、「イエスならそれでいい!」を叫ばせる。この世が待ちわびている福音はただイエス! キリストの血のついた福音だ。この福音が歴史を変え、列強のすべての魂を救うだろう。ハレルヤ!我が主は生きて居られる! 私たちの教会は腐っていない!神の教会は神聖だ! 福音は光栄だ! 普遍妥当な世の中の権力や教権、流行、時流によって恐れられたまま押し流されるか、それとも一日だけを生きるとしても神様の聖なる真理の前に立つか。「主よ、福音で詐欺を働いたり偽善者にならず、福音を生命で証言する者にしてください。 私と一緒にいてください。私は真理以外のものを選ぶことはできません。」自分は果たして真理の側に立っているのか。自分はキリストの側に立っているのか。自分の利益に従わずにいつも主の国の側に立つだろうか。「御霊よ、私たちを照らして下さり、私たちが悔い改めて神様の福音に駆けて進ませてください。」(2018年6月)<終わり>【福音祈祷新聞】 キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載してご使用ください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
ムスリムに改宗したキリスト教徒、夢でイエスに会って回心
キリスト教徒だったがムスリムに改宗したある男性が夢でイエス·キリストに会って再び戻ってきて、心から回心した事情を米CBNニュースが最近伝えた。 マイク·ウェスターフィールドは信心深いキリスト教徒として育ち教会に通い、甚だしくは時々説教をすることもあった。彼はフロリダ州の刑務所で働いていたが,そこにはイスラム教徒が収容されていた。イスラム教徒はマイクにイスラム教の本を渡した。彼は当初イスラム教徒をキリストに導くために本を読み始めた。 イスラム教徒が質問し始めたとき,マイクは答える準備ができていなかった。特に、彼は三位一体に対して多くの疑問を持っている自分を発見した。どうして神様が息子であり、また聖霊であることができるのか。彼は三位一体を理解するために教授と牧師に一生懸命に聞きながら必死に努力した。そうしながら、このすべてを通じてただ推論しようと努力しながらイエスを疑い始め、イスラムについてさらに多く知るようになった。 彼は結局、神には息子がいないという結論を下し、神はただ一人であり、ムハンマドを最後の予言者として受け入れた。 マイクは「私は真実を発見した(I Found the Truth)」のビデオで自分の話を聞かせてくれた。 彼は「私は結局キリスト教を捨ててイスラム教を受け入れた。私は12年間イスラム教徒であり、イマームや学者になるためにイスラム大学に通った。約7年間、忠実にムスリム生活を送った後、私はイスラム教の欺瞞と嘘についてさらに知り、イエス·キリストについて再び考え始めた」と話した。 彼は聖書大学のキリスト教弁証論に関する古い本を探し始め,聖書を読み始めた。また、リストベルの「イエスは歴史だ」、「信仰の事件」のような本を見て、ラビ·ザカライアスのビデオを見た。そしてついに「エンブレイス·ザ·トゥルー·インターナショナル(Embrace the Truth International)」で働いたアブドゥル·マレーを紹介された。彼はイスラム教徒の回心者でありキリスト教弁証人でもあった。マイクが初めて会ったムスリム回心者だったので、彼は自分の考えと疑いを共有することができた。 彼はマイクに正直に接し、非難しなかった。マイクはかつてイスラム教に熱狂した後、なぜ今イスラム教を去ることを考えているのか彼に話した。 2012年、マイクは夢でイエス·キリストに会った。彼は「夢でその方の血で覆われた!なぜそんな夢を見たのか理解できなかったが、とても驚いて心からその夢を振り払うことができなかった。主の血が場面を埋め尽くした。そこから抜け出そうとしたが、完全に覆われてしまった! 平安と愛を感じ、イエス様の濃い茶色の目が私の魂を貫いた」と話した。 彼はアブドゥル·マレーに電話をかけて夢について語った。するとアブドゥルは驚いて言った。マイクがその夢を見た日の夜、彼とジョシュ·マクドウェルはイエスがマイクの夢に現れることを祈ったのだ。 神様はありがたくも彼らの祈りを聞いて下さり、神様の血が彼の罪を許すのに十分だということを確信させる夢を与えた。ハレルヤ! 彼は「ちょうどその時、イエス様が神様の息子だということを知った。しかし、イスラム教を離れるのは容易ではなかった。ついに、1年後の2013年1月にイエス様にすべてを捧げて生まれ変わった! 光栄だった! イエス様は私をあきらめなかった」と話した。 彼はキリスト教の修士号を取得した。彼はイエス·キリストを「私の主であり救世主」として仕えることがどれほど特権なのかを告白した。特にキリストの十字架だけが与えることができる許しが必要なムスリムたちと福音を交わすことを彼は本当に嬉しく思う。 マイクは「避けられないイエス様の愛(The Inescapable Love of Jesus)」という映像で彼の話をした。 彼は自分の話で他のキリスト教徒がイスラム教徒に近づくようにインスピレーションを与えることを望んでいる。 マイクは家族や友人が信仰を離れてムスリムに改宗したとしてもあきらめないように頼む。彼は「祈り続け、愛し続け、友達に彼らのために祈るように言うべきだ。一緒に天国に進もう。それが私の父がしたことであり、神はその祈りに答えた。命と死がかかっているこの事をあきらめるな」と伝えた。 [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
苦難で捕まえられる唯一のもの
もしイエス様が十字架の目的と価値を知らないまま、苦痛を受けとしたらこれ以上無念な苦難はないだろうと思う。罪を知らない方が私たちの罪を背負ってすべての苦痛と恥、絶望と呪いを受けなければならなかったからだ。聖書にはイエス様より先に、無念な苦難を体験した人物がもう一人いる。ヨブだ。後で神様がヨブの友人たちに雄牛と雄羊を彼に持って行けと言われヨブが友人のために全焼のいけにえと祈りを捧げるようにしろとおっしゃる時はイエスとヨブがオーバーラップされる。それなら、神様が許された苦難の前でヨブはどうだったのだろうか。 レンブラントとライバルだった17世紀のオランダ画家ヤン·リーベンス(JanLievens)はヨブを描きながら、彼の無力さを強調した。暗闇の中でとりわけ白く輝くヨブの肉体は、彼の義理を表現する。腕と足を垂らしたヨブは何の抵抗も、何の返事もしない。左にはヨブの妻が羽飾りの帽子と金のネックレスを見せながら、神様を呪って死ねと叫んでいる。帽子とネックレスは過ぎ去った富貴栄華を示す。右側には火を噴き出す二人のサタンがいる。ヨブには恥と嘲弄、絶望のほかに何も残らなかった。 このような深い苦難の中では、誰かの慰めや助言、原因分析も役立たない時が多い。むしろ痛みだけ増す場合が多い。「私だったらそのような神は信じない。」、「神様があなたの罪を記憶しているようだ。」など、中途半端な一言自体が苦難でありうる。 このように終わりの見えない苦難の中で捕まえられる唯一のものがある。苦難が自分に与える意味と神の心を発見することだ。この過程は霊的な知恵が必要なので、必ず主に答えを求めなければならない。罪のためか、それとも黙々と通り過ぎること以外に方法がないのかを見分ける知恵が必要だ。もし後者なら現在の苦難の価値、すなわち苦難が私たちの霊的成熟と清潔のための神様の訓練であることを悟らせるだろう。苦難の訓練であることを知ると、驚くべきの新しい力が出てくる。ヨブの垂れ下がった四肢が持ち上げたら十字架の形になるように、苦難が訓練に変われば、自分を捨てることに耐える力も与えてくださる。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
自分を変化させない福音は福音ではない!
福音に対する二つの反応(5) 神様の国は畑に隠された宝物のようだ。発見した人の人生すべてを変化させるのに十分である。自分の人生が福音に実際にぶつかったら、周りの人が驚くほどに反応するのだ。自分にだけ特別な福音が与えられたのではなく、福音の秘密、隠された宝物を発見したためだ。全てが覆されるような事件が神様の国の福音であるため福音に会ったと言いながら、何事もないということは福音に会ったのではない。 イエス様は極めて貴重な真珠を探し回り、世の中に一つだけの真珠に会った商人の比喩をした。価値が分かったら、持ってるものを全部売ってそれを買うのだ。天国福音、神様の国の秘密を発見すれば全てを売って「それ」を買う。 また、神様は神様の国を海の網に例えた。網を張って魚を捕まえた後、良い魚と悪い魚を区別するのと同じだということだ。福音は皆に向かって開かれてあり、主は悪人と善人を区分せずに日光と雨を与えるが、後で必ず審判がある。 神様の国の特性の中で最も重要なのが神様の国の「実際」だ。私たちの心霊深く主のみ言葉が、その御国が臨む時に真の変化が起き、圧倒的な能力で人生を変化させるのだ。 国家を成す3要素は領土、国民、主権だ。神様の国は主権が王様である神様にあり、私たちが民であり領土は私たちの心霊だ。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21) イエスは ’悔い改めろ天国が近いのだ!」だった。 悔い改めて帰ってくる時、神様の国が私たちの心霊に臨む。 もちろん私たちが行かなければならない永遠の国、新しい空と新しい大地がある。しかし、その国に至る前にこの地で私たちに臨む神様の国は神様の統治だ。神の統治が天国の領土である私たちの心霊に臨めば、呪いと死亡の法で私たちを引きずりながら昔の古い自分に奴隷になってた心霊から悪者が追い出される。そしてイエス·キリストの中にある生命の聖霊の法が私たちを解放させる。悲しみと呪い、悲劇と痛みが消え、主から来る美しさ、聖霊の治め、義と平和と喜楽が私たちの心霊を占める。私たちがどんな状況に置かれていても、神様の国を享受し、神様の民として生きていくことになる。 神様の国を経験する美しい共同体は神様が頭になって統治される、目に見えない教会、’エクレシア’だ。この地で暮らしているが、天に属した主の民で、まだ神の国を見ることができない者たちを神の国に救う神の国の地点がまさに私たちの心霊だ。 福音の核心メッセージは”悔い改め、主イエスを信じろ。”だ。 このメッセージが本当に信じられれば、完全な存在的変化が起きざるを得ない。外見は教会を通う、職分も受けた、けど心霊に本当の変化が起きないのは福音を誤解したり会えなかったことだ。彼に必要なのは福音を理解できるように神様が霊の目と耳を開いて下さって心霊を沃土のように作って神様の国がからしの種のようにその中に臨んでその人生を変えて下さることを願うことだ。私を変えることができない福音は、もう私にとっては福音ではない。私を動かすことができない信仰は決して信頼ではない。 (2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞]269号福音で十分です。 金容儀宣教師(巡回宣教師. LOGミッション代表) <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム]罪とイエスの使役
イエス様が行われようとしたのは何だろうか? 彼の死と復活は現実に実際的な影響を及ぼすことだったのか? あるいは永遠の問題に全ての焦点を合わせたのだったのか? 聖なる神様の息子が、自分の栄光を捨てて、人の形を取って、義を貫いた人生を生きて、他の人たちの罪のために喜んで自分を完全ないけにえとして捧げたことを考えてみよう。その全ての事が罪を無くさないで、単純に罪を許すための目的だっただろうか? 使徒ヨハネは手紙の受信者たちが自分たちの信頼の真実性を試験するのを援助するために最初のソシン書を書いた。 このようなテストは、キリストの使役が彼らの人生に必然的に影響を与えているかどうかを試すものだった。 そして彼はヨハネの手紙一3:5-8で私たちを代わりにしたキリストの使役は彼の庶民の暮らしが画期的に聖化するのに影響を及ぼすためのものということを明らかにした。 "あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネの手紙一3:5-8) 私たちの代わりのキリストの御業 イエス様が私たちのためにこの地に”罪を除くために”(ヨハネ一3:5)来られた。彼は罪の代価を払うためにいらっしゃっただけでなく、罪を許すためにいらっしゃったし、すべての罪をなくすために来られた。キリストの贖いで信じる者は皆罪から分離された。一時、彼らの生活の特徴とも言える不法が除去された。 したがって、キリストの十字架の拘束でキリストの生命を共に分かち合った人が罪の中に生きるということはつじつまが合わないことだ。 つまり、イエス様は信じる者を聖火させるために死んだため(コリント第二5:21)、罪の中に生きることは信じる者の人生で罪の権勢を破った彼がされたことと反対であることだ(ローマ6:1-15参照)。 罪を滅ぼすために来られたイエス様の真理は単純に未来の希望ではなく、今起きている現実だ。ある人は、信じる人は死ねば罪から拘束されるが、死ぬ前には彼らが依然として罪の中にいる可能性があると言う。しかし、ヨハネはそうではないと話す。聖化の過程は遅くて漸進的に起こりうるが、救われた後に人生を変えるキリストの作業は即刻起きる事件である。(フイリピ1:6) 救われた瞬間、信じる者は本当にきれいになり、彼らの罪から分離されることを経験する。実際、その分離は彼らがイエス様の姿をより一層似ていきながら進行される。 テトスへの手紙2:11-14は、聖化の現在と未来の様子をよく説明している。“その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。" したがって、キリストが十字架でされた一度の業は、私たちの人生の中で彼が持続的にされることの始まりだった。 しかし、何がそれを持続的にできるようにしたのだろうか。 私たちがこの世で罪に勝てるようにするどんな変化が起きたのか。 キリストの中で私たちの新しい性格 ヨハネは5節を"彼には罪がない"という言葉で終えた。イエスは罪と何のかかわりもない方だ(コリント第二5:21)。この事実は実際的に大変な波及効果がある。ヨハネは手紙の前頭に”あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。”(ヨハネ第一2:29)と話した。神の救いの能力が新たに信ずる者に与える場合、彼らは生まれ変わって、新たな性格を受ける。そしてまるで生まれたばかりの赤ん坊のように神様の国で暮らすことを学ぶ生活を始まる。 その後に使徒は6節でキリストの御業で救われた人の特徴を説明している。 “御子の內にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく知ってもいません。”キリストの内にいるのは彼の法に従って彼の勝利を記念し、彼の王国に住むのと同じことだ。簡単に言って新たになった人は罪を遠ざけてキリストと近くなる。数年前にパウロは同じ真理をローマ聖徒たちに教えた。 “わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。”(ローマ人への手紙6:4-7) この言葉は新約聖書の中心を要約したものである。(エゼキエル36:25-31)パウロは続いてさらに詳しく説明した。 “しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。”(ロム6:17-18) パウロが強調するのは聖化である。 真のキリスト教人には聖霊様がいらっしゃる(ローマ8:12-17)。 新しい心を受け、(使徒行伝16:14)、完全な許しを受けて(1:14)、そして新たな生を受けている(コロサイ3:5-10)。 このすべてのものが神様の法に従う新たな能力で証明される。 聖火と確信"罪を犯す者"(ヨハネ第一3:6)はキリストの内にいることはできない。 この言葉はキリスト人になった人は二度と罪を犯さないということではない(ヨハネ第一1:8)。しかし、彼らは彼らが生きてきた人生を再び生きることはないだろう。なぜなら"御子を見て彼を知っている人は"(3:6)習慣的に生まれ変わっていない人のように"罪を犯さない"からだ。 ヨハネはさらに、手紙の受信者に対し、聖化について正しく理解していると騙されているのではないか確認するようにと注意した。逆に偽りの教えがあるが、ただ"義を行う"者だけが"イエス様が義であるように義である"(ヨハネ第一3:7)という確信を持つことができる。 ヨハネははっきりと結論を下した. "悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネ第一3:8)本当に信じる者たちが悪魔のような行動を続けることは不可能なことであり、考えられないことだ。 今、サタンは依然として神様の計画と神様の人々を対敵する(べテロ一5:8)。しかし、信じる者はもはや彼の影響の下にいるか、彼の支配の下にはいない。キリストを知り、キリストを愛する私たちは罪の束縛から自由になった。そして聖霊の感動を受けた使徒ヨハネは、「私たちはそのように生きなければならない」と話す。 これまで我々は罪のある生活様式は罪が不法であるため、救われる信仰と似合わないということを見た。そして、本当に信じる者は、その反抗的で不法な心を悔い改める心に変えたため、罪のある生活様式は救われる信仰とは似合わないということを調べてみた。今、私たちはどうやってイエス様の使役が私たちの罪を許すだけでなく、一生にかけて進行される聖化の過程を始めるということを調べた。 ヨハネは最後に罪がなぜ救われる信仰と似合わない理由を言う。そして、それは止まない御霊の使役に焦点を合わせたものである。 私たちはその最後の問題を次に調べて、このシリーズを終える。 [福音祈祷新聞] (上記の文章はジョン·マッカーサーの新約注釈:ヨハネの手紙一–三から抜粋したものです。) 出所:http://www.gty.org/blog/B140626?term=b140626 |ジョン·マッカーサー||グレイストゥコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起きるすべてのことを聖書の言葉から答えを探そうとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGracetoKorea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
真の福は'福音を見ることができる目と聞くことができる耳'
福音に対する二つの反応(3) 福音が強力で単純で明確に叫べば聞き取れない人がいない。ところが、不思議なことに同じ祝福の福音を聞いても、心の状態によって反応が分かれてしまう。“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の 力です。(コリント第一1:18) 十字架の言葉が永遠、天国、尊さ、希望… このようなことなしで悪を抱いて生きる滅亡する者たちには愚かで無知な話に聞こえるけど、救われる人、すなわち心霊が貧しい者には十字架の言葉こそ彼らの人生を変化させる神様の能力なのだ。 ”ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知惠を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された 者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ伝えているのです。“(コリント第一1:22~24) ユダヤ人は自分たちが理解できるしるしを求め、異邦人であるギリシャ人は人間のレベルで理解できる知恵を探すが、ひたすら召された者にはユダヤ人であれギリシャ人であれキリストこそ神の能力であり神の知恵だ。 このように同じ福音を聞かせて手に取るように持ってきても心の状態がどうなのかによって反応が天と地ほど異なる。心で聞く耳が重要なのだ。"しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。"(マタイ13:16)霊的な目と耳が開かれ心霊で神の声を聞いて見ることができる福が真の福だ。人間になった神様、永遠で唯一の主であるイエス·キリストをわかるということは、人間的な知識や知恵では分からず、霊的な目と耳が開かなければならない。十字架の言葉を悟らずに信じられなければ、私たちは罪の中で生まれ、罪の中で生きて永遠に滅びることになる。だから十字架の言葉の秘密を見ることができる目、それを聞くことができる耳が'生きるか死ぬか'の永遠の運命を分ける途方もない福なのだ。2000年前、ダビデの町にナザレイエスとして来られたイエス·キリスト。その方をキリストであり生きている神様の息子として知ることができる目を持つ者が救いに至り、神様の国の民になり、神様の永遠の福を受ける。この福音が私たちの生命になるにはまさに私たちの霊の目と耳が開かれてこそ可能であるのだ。 心霊が貧しい者に福があるという言葉は歴史の中にそのまま現れた。 神様が人になってベツレヘムのナザレにある馬小屋にいらっしゃった時、赤ん坊で来られた。その時、東方の博士たちが訪ねてきて礼物を差し上げたが、彼らはイスラエル人ではなかった。正確ではないが、今のペルシアやイランの向こうから遠い道を来た。推察してみると、聖殿もあり、祭司もあり、イエス様と関連した予言が並んでいる旧約聖書を毎日抱いて生きてきたユダヤ人こそ、一番先にイエス様をわかるべきだったのではないか。ところが、彼らはついに人間の体を着て来られたイエス様に気づかなかった。むしろその昔イスラエル人たちが捕虜で連れて行かれたが時に伝えられた聖書の一部の中で'人類を救うメシアがユダヤの地に王として来られる時、本来あった星でない星で東方に浮び上がるだろう'というかすかな影のような予言だけを持つ東方人たちがその星を発見した。そして、その遠い道を巡礼者のように訪ねてきて、赤ちゃんイエス様に黄金と没薬と乳香を礼物として差し上げて王に差し上げる敬拝をして帰った。 (2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨン イ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。
福音に対する二つの反応(2) 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。 天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。 “この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15) 自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。 “もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29) 衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。 このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音は世間の常識では理解できない価値である
福音に対する二つの反応(1) 肉体を着て地を踏み込んで生きていく私たちの人生は、食べて、飲んで、結婚して、売買しながら目に見える人生を熱心に生きていく。ただ目の前にある現実を急いで生き抜くのに忙しい私たちにある日突然全く経験したことがない別次元の世界が現れたら、その世界は理解不可能だ。肉体を着て有限な世の中を生きていく私たちが最も理解できないことの一つが永遠の神の国だ。天国からこの地に来られた神様が聞かせてくださった無限で永遠の神様の国と永生、そして神様が治めるという言葉こそ人間が想像できない神秘的な次元の話だ。 異邦人は神様の言葉の基盤がなかったので全く聞き取れなかった。しかしユダヤ人たちはすでに奇跡と予言を通じて受ける準備ができた選んだ民族だった。神様はイスラエルを啓示の伝達者として使うために特別に選んだ。神様の言葉を先に任せながらどの民族にも許さなかった生きておられる神様を経験させてくださった。 主はこの地にいらっしゃる時、当時一番華やかで注目されたローマや中国西安ではなく、最も小さくてみすぼらしいイスラエルの地に来られた。神様はすでに約束してくださったユダヤ人たちに言葉通り肉体になって来られたイエス様を通じて次元が違う神様の国の秘密をこの歴史の中で啓示された。 神様が聞かせてくれた天国の宝のような言葉のうち、マタイ福音書5章から7章までを山上報勲という。山の上で神様が施してくださった宝物のような教訓という意味だ。神様は当時どこでも聞いたことのない驚くべきことを言う。ユダヤ人が神の民と言っても霊的な秘密をよく知らないため、神の祝福を富国強兵や太平盛大など目に見えるこの地のものに例えて、彼らの理解可能な水準で伝えた。神様に従う時は国が富強でうまくいき、不順な時は苦労する。 ‘ああ、神様に従えば福で、不順なら呪いだ!’ということを肉体でも悟り、すべての生死禍福が見えないけど生きておられる神様にあることを知らせようとされた。 すべての生死禍福が生きている主にある。 しかし、神様が来て基礎しか知らないユダヤ人たちにおっしゃった天国の福は私たちの常識を破る話だった。”心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”(マ5:3~5)このすべての話は世間とは全く違う価値だった。 この驚くべき言葉は神様なしにこの地に住みながら目に見える人を恐れて現実だけに反応する人たちにおっしゃった言葉だ。 “祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。”(マ6:5~6)(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師) LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム]ジョン·パイパー_もっと良い天のお父さん。
イエス様は’あなたにお父さんがいらっしゃる’という激励をおっしゃっています。’君に天の父がいらっしゃる’という次元を越えておっしゃっています。’あなたに完璧な父親がいて、その方は悪い方ではない’とイエス様は対比させます。神様は悪い方ではありませんが、すべての父親は悪いと。もし最高の父をもうけたなら、これから良いことがあるでしょうが、神様はその良い父より1万倍も良い父だということです。実は私は詳しく調べてみて、とても小さな違いがあると言いたい誘惑を受けます。ここで言い間違えたらダメなんですが。これを深く考えてみませんでした。良いお父さんと悪いお父さんの違いがこれくらいなら、神様と良いお父さんの差は無限です。いわばそうだということです。悪い父と希望する父の間には大きな差がありますが、その差は神様と良い父の間の差と比べてみたらとても小さいです。神様の父性に対する理解を皆さんの父に対する経験に照らして制限しないでください。皆さんのお父さんがどんなに良くても悪くても関係なくです。[福音祈祷新聞] ジョン·パイパー(JohnPiper)|ジョン·パイパーはdesiringGod.orgの創立者であり、Bethlehem College&Seminaryの総長として33年間ミネソタ州にあるBethlehem Baptist Churchの担任牧師として仕えた。代表作に’神様を喜びなさい’があり、最近著述した’私がパウロを愛する30個の理由’の他に50冊余りの本を著した。 この映像は改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[ソン·ウンシクコラム]”離婚届に印を押して一人でいたところ、突然イエス様が訪ねてきました”
初めて書く使役日記のようです。 あまりにも文を書く才能がなくて書きたくなかったが、やりたくなくても規則を立てれば従うのが共同体だと思います。悩んだ末に初めてなので、証言した方がいいと思って分けようと思います。 私が神様に会ったのは2014年8月です。 私は結婚はしたが全然結婚した人のような生活をしていませんでした。毎日夜遊びで夜明けに家に帰りました。そして性格もとても乱暴でやくざの友達も私をサイコと呼びました。両親も私の顔色をうかがうほどでした。 そのように暮らしていたある日、妻が離婚をしようと言いました。当時は別居中で私は釜山で遊んでいました。それで離婚届にハンコを押すためにソウルにある家に行きました。妻は泣いていたし、私は書類にハンコを押しました。そして部屋に入って横になりました。もう離婚もしたのでこれからちゃんと遊んでみようと、こういう考えをしているのに突然イエス様が私に訪ねてきました。今思えばお母さんの涙であげた祈りのためではないかと思います。 今もその時、その瞬間を忘れられません。一瞬でイエス様が心に信じられました。イエス様が救援者という事実と、私のために十字架で死んだということが少しの疑いもなく信じられました。私は泣いて、また泣いて、泣き続けました。朝も私は泣いていました。イエス様が大好きで狂いそうでした。次の日の朝、離婚届を受け付けに裁判所に行かなければならないのに妻は泣いている私を変に見ました。まるで’この野郎が離婚したくなくて演技するのか’と眺めて”何してるんの、早く準備して。裁判所に行こう”と言いました。私はその時、号泣しながら妻に話しました。イエス様が私のために死んだ。私は妻を抱きしめて泣き続けました。結局裁判所には行けませんでした。 私はその日からすべての中毒が完全に途絶えました。タバコ、お酒、性欲その他すべての中毒は途絶えて、何も食べられないので体重は90kgから74kgに痩せました。ひたすらイエス様を考えるだけでした。とても幸せでした。神様がくださる喜びに毎日胸が張り裂けそうでした。 毎日幻想を見て、夢を見て、幽霊も見て、私が祈ると神様が細かく答えてくれました。私が祈ると雲も動きました。そして死んで生き返ったこともありました。本当に一つ一つ話すと多すぎて、ここに全部移すことができません。 その週日から教会に通い始めました。礼拝時間ごとに恵を注いでくださって涙なしに差し上げた礼拝がなかったようです。教会では私を変に見ました。あの人は誰だから来るたびに泣いて、また賛美はあんなに大きく歌ってって、そんな姿の私を変に思うようでした。 そのように教会では適応するのに時間が必要でした。私は祈るのが大好きで、毎晩4時間から5時間ずつ祈りました。火を消して祈りましたが、祈りが終わると部屋の中が明るくなっていました。そして方言祈祷と方言讃揚も行いました。でも、教会や誰かと一緒に祈るときは、方言を使いませんでした。私の証言を読んで、ある方は神秘主義者だと思うかもしれません。私の考えでは、私は何も知らず、あまりにも無知な人間なので、神様が私にはこのようにしなければ信じないようで神秘的な体験を数え切れないほど与えてくれたのではないかと思います。 最後に私が長くはないが、今まで信仰生活をしながら感じたのは’ただイエス、ただ十字架’ということです。いくら多くの体験をしても、多くの人を直しても十字架のない福音は福音ではありません。フレイフォーユーのすべての使役者の方、同役者の方々、最後まで十字架を握って狭い門の狭い道を行くことを祈ります。 シャローム!<キム·テホ>[福音祈祷新聞] *このコラムでは、ソン·ウンシク牧師とフレイフォユ使役に仕える使役者たちの使役日記を紹介しています。 ソン·ウンシク牧師|2013年末からソウル市内のホームレスと一人暮らしの高齢者を助け祈るフレイフォーユー使役としてこの地に仕えている。 <著作権 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
【TGCコラム】弱さ、福音に耳を傾ける機会
“アドニヤは慈悲を求めに駆けつける。 これが彼の唯一の希望だ” アドニヤ、自分自身を振り返らせる名前だ。注目する人は多くないようだが、よく見ると彼の話には私たちに与える助けがある。 ご存知のようにアドニヤはダビデの死が差し迫ると、その時を狙って自ら王になろうとした。列王記上1:5で彼はこう言う。”私が王になる”。彼は父親から王位を受け継ぐまで待てず自ら王座に上がろうとした。ダビデはこのようなアドニヤを認めなかった。ダビデはソロモンが王になることを望み、結局ソロモンを後継者にした。 このことで異母兄弟のソロモンとアドニヤはぎこちない仲になった。アドニヤのセルフ戴冠式祝賀会はソロモンが王になったという急知らせで中断され、その場にいた人達はたちは驚いてばらばらになった(王上1:49)。アドニヤは1人残され、ソロモンが”怖かった。” 彼はこれからどうするのか。 “立って行き、祭壇の角をつかんだ。”(王上1:50) 怖がっていた。誰も見ていない時、王冠を握ろうとした計略がぞっとする過ちだったことを今は知っている。王座に就いたばかりのソロモンが、民の前で自分を手本に処断することを恐れる。だから、慈悲を求めに主の所に駆けつける。祭壇の角をつかむ。 まさにここでアドニヤは私たちにとても役に立つ。 1。彼は自分の罪を見る。 彼は自分が何を犯したのか、その結果がどうなるのか苦痛に思っている。(私は彼を悔悟の模範として展示するつもりはない。自ら王座に上がった結果を彼が知ったという事実に注目すれば、役に立つということを見せようとするものだ。) 2。彼は自分の弱さを見る。彼は王の相手にならない。彼はソロモンを退けたり勝つことはできない。彼は今後の状況をコントロールすることはできない。彼は弱い。 3。彼は慈悲を求めに駆けつける。これが彼の唯一の希望だ。彼は主に駆けつけてソロモンが自分に慈悲を施すことを望まなければならない。 まさにこの地点で私たちの話につながる。私たちは皆弱さと不安を感じる。一部は私たちが犯した罪の直接結果である。他人が犯した罪のためにもある。肉体の問題のためにもある。 我々を弱める要因は沢山ある。私たちは何が私たちを弱めるのかよく知っている。 こういう時、私たちはどう反応するのか? アドニヤはよほど痛ましい姿を見せる。堂々と罰を受けるという姿勢ではない。祭壇にしがみつく。 色々な状況の中で私の弱点が明らかになり不安が押し寄せる時、私たちはどうするのか? そういう時、僕がよくやることがある。私はそれをよく知っている。私は問題解決モードに縮こまるのが好きだ。あまりにも頻繁に心配したりもする。自分自身を哀れに思う時も多い。ある時は人のせいにする。大半は忘れる。 何を忘れる? 1。私は神様の主権を忘れる。神様はすべてを治める主権者であるため、このような状況さえも神様の目を避けることができない。実は、私が感じる不安も神様が私に許したものだ。この真実を知れば、自己憐憫は一挙に消える。 2。私は神様の善良さを忘れる。私の不満は善に対する私自身の規定が間違っているために生じるものだ。神様が善良ならば、私の人生にある私を苦しめることさえも善良だ。懲戒である時もあり(ヘブライ12)試験である時もあるが(ヤコブ1)、それがどんなことであっても私の有益のためのものであり、聖化の過程であるのだ。 3。神様の福音を忘れる。 私は不満を言いながらうめき声を吐き出す。この時、私の心情を言葉で表現できるならば、それは事実上私に対する神様の誓いと愛に疑いの言葉になるだろう。このように私は自己憐憫と心配と他人のせいで神様を恨んで事実は神様を疑う。ところが、福音のトランペットの音がこのような疑いを吹き飛ばしてしまう。その音を聞いてみろ。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緖にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ人への手紙8:32) ちゃんと聞いたか?神様は福音の中でそして福音を通じて神様の民に神様の愛と関心と心を立証された。神様が私たちを愛しているという確認や証拠が必要なのか?ここカルボリ丘の頂上にその愛を宣言する血で塗られた記念碑がある! アドニヤは安全を求めに神様に駆け込んだ。しかし、今や私たちキリスト教徒が神様の聖殿だ。神様の御霊が信じる人々の中に居られる。したがって、私たちの前にある現実は、すべての聖徒に与えた愛と関心と慈悲と安全とみ恵の現実、完全に新しい現実だ。 神様がキリストの中で私たちに近づいてきたので、逃げて隠れる必要はない。 私たちは施恩座(mercyseat)になってくださったキリストに捕まっている。 私たちはキリストの所有であり、キリストは神の所有である。 [福音祈祷新聞] “神様が善ければ、神様が私の人生に持ってきて私を苦しめることさえも善い。” エリック·レイモンド|エリック·レイモンドはボストン都心に位置するRedeemer Fellowship Churchの担任牧師である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム]根本主義(3):根本主義の衰退
私たちは根本主義運動の先駆者に大変な負い目を負っている。悲しいことに,過去の世紀に彼らの戦いの必要性を理解するキリスト教徒はほとんどいない。彼らが大胆に乗り出さなかったら,多数のアメリカの教会が宗教改革の心臓部であったヨーロッパを霊的に荒廃させた,偉大な力を持つ神学的自由主義の影響に降伏していただろう。 元々根本主義者たちは聖書的教理が軽く受け入れるにはあまりにも貴重だということを理解していた米国の神学者たちと牧師たちだった。彼らは聖書の無誤性、キリストの唯一性、復活、永遠な生命と永遠な呪いの現実、人間堕落のような根本的なキリスト教の真理を断固として弁護した。この初代の根本主義者たちは神様のみ言葉に対する固い意志と真理に対する交渉を拒否することで勝利した。これが、自由主義が米国教会の景観を絶対覆せない理由であり、聖書を最高に考え、福音を忠実に伝える教会が今にもある理由だ。 しかし、悲しいことに、根本主義運動は初期に成功するや否や、ほぼ同時に緩み始めた。学問的に認められるために必死だったある集団の根本主義者たちは、時代の流れであった多元主義から自分を守ることができなかった。神学的自由主義に対抗して設立された学校は、自由主義神学に過度に露出されて、初期の根本主義の強力な立場(聖書の無誤謬)を放棄し、聖書の無誤謬について妥協し始めた。驚くべきことに、一部の根本主義学校と教会は、創立した一世代が過ぎる前に、聖書の無誤性に対する彼らの献身を放棄してしまった!これらの機関と関係のある人々の大半は速やかに「根本主義者」という名を否定して捨てた。 もうひとつの根本主義の集団は反対方向に動いた。彼らは学問的に認められることに執着していた仲間たちが、根本主義の基本をあきらめてしまったことをよく知っていた。そのような理由で彼らは学問に不信を抱いたり、または学問を完全に捨ててしまった。このような根本主義的運動の右派は争い好きの分離主義者によって絶えずに分裂してしまった。彼らの中で律法主義者たちは外面的に現われる問題だけを極度に強調した。時々些細な問題が主な討論や議論となり、重大な教理を代替することがあった。これらの群れは、信者たちの実在的な根本を守るための時間よりも多くの時間を人々の髪の長さや女性の服装など重要でない問題を討論することに多く時間を費やした。 つまらない口論を好むすべての極端な律法主義者はついに根本主義という用語を傷つけてしまった。知能的にも気質的にも,この集団の根本主義者たちは根本主義運動の父達があれほど強力に守ってきた高い信念を完全に捨てた。その結果,根本主義運動は教理を巧みに軽視する誘惑に負けてしまった。この集団の根本主義者たちが出版した資料の中に、真の教理的または聖書的な深みを持った重要な著作物が全くないという点は注目に値する。そして、「根本主義者」という用語は、この好戦的な群れの代名詞になってしまった。 ここ数年、根本主義者という言葉は世俗的なマスコミによって誤用されてマスコミは自分たちが考えることのできるあらゆる宗教的狂信者にこの名前をつけた。 門を広く 初期の根本主義の論理的で神学的だった精神はすべて死んだ。 現代の福音主義者はあまりにも喜んで教理を過小評価している。根本主義的な先輩たちとは異なり、現在多くの人々は真のキリスト教が幅広く異なる―その上矛盾である―信仰体系まで受け入れるほど十分に広がらなければならないという提案に完全に同意している。多くの福音主義者は根本的な教理上の違いにかかわらず、カトリック、東方正教会、極端な恩賜主義者、自由主義者を自分たちと同じように考え、彼らとの霊的同盟を結ぶために努力している。 歴史的に福音主義者と根本主義者はほとんど普遍的にエキュメニカル運動を拒否してきた。エキュメニズムの主な力は世界教会協議会(World Council of Churches)であったが、聖書的なキリスト教は全く関係なかったこの団体は、超自由主義的な教団の中から会員を募集することを好んだ。結果的にエキュメニズムは、福音主義者に少しも影響を及ぼすまでには至らなかった。 エキュメニカル運動の最も栄えた時代であった1960年代にも、福音主義教会は劇的な成長を経験してエキュメニカル教会は急速に衰退した。10年前の世界教会会議は失われた運動の遺跡のように思えた。 しかし、今やその絵が変わっている。驚くべきことに、今最も強力なエキュメニカル勢力は、沈みつつある福音主義の下で、恩賜主義運動、カトリックと福音主義の一致、協同的な大衆伝道、そしてキリスト教言論界の声とともにある。 高さを下げる 主な福音主義の特性である「根本」を剥奪しようとする攻撃的な努力が続いている。福音主義の影響力のある声は、根本を最大限受け入れられる最も単純な"信仰の陳述(the Statement of Faith)"に変えるように促す。そして、こうした声は全般的な福音主義の中で聞くことができる。より広い寛容とより包括的なものを訴えるのは,恩賜主義者,世代主義者,カルヴィン主義者,アルミニアン,改革主義者,ルーサー教の指導者,すなわちあらゆる種類の福音主義者から来ている。 (2013年に死ぬ前まで)トリニティ放送ネットワークの会長だったポール·クラウチ(Paul Crouch)を例に挙げると、彼は"私がよく言っているように、ある神学者が異端だと考えるのが他の神学者には定説です"と述べた。しかし、クラウチは我々が我々に一機に与えた信仰のために力を尽くして戦わなければならないというユダ書の3節を知っていた。彼は言った。"それなら『信仰』とは何か?" クラウチは、絶えずに成長する人々の声のなかで、使徒信条が「信仰」に属する者とそうでない者の境界線となるべきであると主張した。しかし使徒信条が果たして我々にキリスト教信仰の最も確かで交渉できない根本を提供するのだろうか。そして、私たちは使徒信条がどれほどこのような問題に対して権威があると自信を持つことができるか。次の時間に、この点について見ていくことにしましょう。 キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
イエスの目には何が込められてたのだろうか?
バケツから水を浴びようと、 子どもたちが我も我もと手を伸ばす。指の間から流れ落ちる水が汚れを洗い流し、気持ちよく体と心を濡らす。微笑んで水を注いでいる少女の目には今何が込められているのだろうか。 神様は罪で汚れた人生をきれいにするために一人子であるイエスを十字架につけられた。罪のないイエスが十字架で死んで復活したことで、我々は新しい生命を得た。 イエス·キリストが流した血ですべての罪人は貞潔になった。罪人が貞潔になる瞬間、イエス·キリストの目には何が込められていたのだろうか。破壊される罪の押さえつけと爆発してしまうサタンの嘲笑と打ち砕かれる罪のくびきと…。. 称えよう!イエスが私たちを救って情潔にさせた。私たちを愛する神様を心を尽くして敬拝しよう! "この日にあなたたちを淸めるために贖いの儀式が行われ,あなたたちのすべての罪責が主の御前に淸められるからである。"(レビ記16:30) [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 根本主義(2):根本主義の登場
イエスは言われた。”わたしは道であり,眞理であり,命である。わたしを通らなければ,だれも父のもとに行くことができない。”(ヨハネ14:6) ほかのだれによっても,救いは 得られません。わたしたちが救われるべき名は,天下にこの名のほか,人間には與えられていないのです。 (使徒行傳4:12) 聖書で神様は宗教に対して寛大ではない。サタンは私たちが神様を信じない限り、何をどれほど信心深く信じようが気にしない。神様が聖書とは違うどんな姿の礼拝でも受けると言うことは、聖書の神様を否定することだ。何よりも神様が与えてくれた最初の戒名は”わたしは主,あなたの神,あなたをエジプトの國,奴隷の家から導き出した神である。あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20:2-3)だからだ。 聖書を信じる人なら他の宗教も事実であり得るという可能性を受け入れることができない。キリスト教を本当に真理だと信じるのなら、それだけが独占的に真理に違いない。キリストが宣言した核心的なメッセージの一つがその方だけが真理を与えるという主張で、その方の真理から外れたすべての宗教はすべて嘘だということだった。 もちろん、このような意見は現代文化の相対論的な価値とは正反対である。多元主義と多様性は絶対的な真理よりも高い美徳とされている。私たちの信仰だけが正しくて他のすべての信念は間違っていると言えなくなっている。そう主張することは後戻りする、旧式の無礼な行動と見なされている。言い換えれば、私たちは宗教的信仰を持つことができず、ただ信仰を私たち個人の好みにだけ置くことができるようになったのだ。 実際、これらの問題は目新しいものではない。教会は少なくとも世紀の変わり目からこのような問題に取り組み続けてきた。宗教的基準と信念において幅広い考え方を持とうとするこのような訴えは、常に神学的自由主義の中心にあった。本当にこのような考えは、自由的(liberal)という用語が本来意味したものと正確に一致する。今流行している'寛容'にすべきだという訴えは福音主義陣営内部からの声だ。 自由主義は100年ほど前からプロテスタントの主要教団を占め始めた。かつて聖書の真理に献身していた学校は彼らが守るために設立したその教理を攻撃し始めた。プリンストン神学校(Princeton Theological Seminary)さえも長い間正統改革主義の砦であったが、結局は時代の思潮に屈してしまった。そのためにしばらくの間、福音主義は自由主義によって完全に圧倒され、壊滅したように見えた。 自由主義者は時代遅れであり,無知,悽絶に偏狭であることを福音主義の特徴にきめた。彼らはキリスト教はあらゆる種類の信念を幅広く受けるべきだと主張した。彼らは歴史的福音主義の狭くて独占的な本質がキリストを適切に代表することはできなかったと考えた。寛容と自由主義が現代キリスト教に適していると考えたのだ。彼らの主張が人の聞かせて始めた。正しい教理は妥協と自由主義に道を開けて、教会内で何も信じないことがむしろハイレベルと考え始めた。 ところが、その後、驚くべき運動が始まった。大西洋の両方から福音主義者が根本主義(The Fundamentals)という一連の執筆と出版で連合したのである。元々12冊で出版されたこれらの文章は、根本主義(fundamentalism)と知られる運動の土台を築いた。ジェイ·グレシャム·メイチェン、ジェームズ·オー、アール·エイ·トーレイ(J. Gresham Machen, James Orr, R. A. Torrey)のような人々が先頭に立って、根本主義は自由主義、聖書の高等批評、進化論、モダニズムと戦うために正しい教理を採択した。 根本主義に関する教理的な根拠は福音主義的聖公会、ルター教、長老教、メソジスト教、バプテスト教、メノ派教、独立教および他の教団を含めるのに十分だった。彼らが”根本(fundamentals)”であると確認した案件は、彼らが必須であり、基本的で妥協できない真理と考えられる教理であった。当然、この教理は自由主義と福音主義を区別する信仰の書であった。 原理主義者はこれらが真の教会を嘘のキリスト教と区別する教理だと信じていた。 では、彼らが同意した根本主義の文章は何だったのだろうか。 最も基本的なものは聖書の権威、霊感、無誤性だった。根本主義者らは、聖書高等批評をする人々に対して、聖書が文字通り神のみ言葉であることと、歴史的にも事実的にも正確であり、信徒に完全で唯一の拘束力がある規則だと主張した。こうした原則はもちろん、他の様々な問題の主が誰かを決める重要な原則だった。もし、私たちが聖書が権威があり、間違いのない神様のみ言葉だということに同意するなら、創造事件、キリストの処女誕生、彼の肉身の復活、奇跡のような歴史的な主張を論争する正当な理由がない。我々が聖書が信仰と実行の問題で唯一の権威だと信じているのなら、宗教的な推測や教会の伝統を聖書と並ぶことできない。 キリストの神聖、三位一体教理、十字架に対するキリストの代理贖罪、復活、信仰によって義に適うとしたこと、恵みによる信仰によった救い、聖化の必須性、他の根本的な教理を歪曲したり反対するすべての信仰を拒否すること、このすべての事案が"根本"として列挙された。 要するに,初期の根本主義者は自由主義者に対抗するために、真実なキリスト教を正義するために、正しい教理を用いた。自由主義者は実質的な問題だけを主張したが,理論的な部分ではそうではなかった。彼らがよく使う自由主義的スローガンは、"キリスト教は人生であり、教理ではありません"だった。しかし、根本主義者たちは、真のキリスト教が人生のすべての方面に影響を与える教理だと正しく主張した。 そのため、できるだけ広い範囲の信念を受け入れるために"キリスト教"という名称を快く拡大しようとする人々とは違い、根本主義者たちは絶対的で妥協できない客観的な真理の核心を探そうとした。彼らは正しい教理の本文がキリスト教のすべての基礎であると主張した。彼らにとって、根本(fundamentals)を拒否したすべての宗教のブランドは偽キリスト教または非キリスト教と見なされた。 原理主義者はほとんどの教団を自由主義の侵食から取り戻すことができなかった。しかし、彼らは歴史的な聖書真理に忠実な新しい学校、新しい教団、そして新しい教会を建てることができた。これらの機関は1世紀の間、活発な成長と霊的影響力を享受したが、主要教団の教会は深刻な衰退を経験した。 アメリカが依然として聖書を信じる健全な教会を持っていることは根本主義的先祖の業績だ。もし彼らが席を立てずにキリスト教の基礎を守っていなかったら,アメリカの教会の景観は今ドイツのような国で見られる荒れ地に似ていただろう。ヨーロッパの教会は,自由主義の偽キリスト教による壊滅的な損傷から回復したことはなかった。ヨーロッパの崩壊は、私たちにメイチェンのような人々の確信と勇気がなかったら、私たちはどうなっていただろうかということを深刻に考えさせてくれる。 自由主義に対する根本主義の闘争による利益は、今日まで影響を与えているが、根本主義運動自体は決して長生きできなかった。根本主義運動は頂点に達するや否やほとんど乱れ始めた。根本主義の分裂を理解することは、我々が今の福音主義の状況を理解する上で非常に重要な点だ。次回のコラムでこの問題について考える事とする。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?
あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org