「世の知恵では決して理解できない逆説、十字架!」

神の救いを約束されたユダヤ人たちはそれぞれ自分が望む救い主を心に待っていました。ローマの束縛から解放してくれる革命家、新しいイスラエルの国を建て回復させる政治家、貧しい人々に食べ物を与え世話をする社会活動家。しかし、神が用意された救い主は彼らの期待とは異なっていました。神はご自身の計画通りに救い主をこの地に送り、親しく救いを成し遂げました。唯一その方法だけが私たちを救うことができるからです。 救いを誤解する人々 「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。それは彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネの福音書 3:16)」 神の救いは逆説的な方法です。十字架の道は世の方法では理解できません。死が命となり、失敗が勝利となる逆説だからです。 十字架の秘密 「女の子孫はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記 3:15b)」, 「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。(マタイの福音書 10:39)」 救い主がかかとに攻撃を受けると同時に、蛇(サタン)の頭は砕かれます。救い主を殺すことは結果的にサタンを殺すことでした。死の力を持つサタンに打ち勝つ唯一の方法は死から生き返ることです。つまり、死が命とならなければ勝利できないのです。生きようとすれば死に、死のうとすれば生きる逆説、それゆえ十字架は秘密なのです。 世の誰もこの逆説的な神の救いの方法を知りませんでした。もしサタンがイエスの死が救いを成し遂げることだと知っていたならば、救い主であるイエスを十字架にかけることはなかったでしょう。 「この知恵は、この世の支配者たちの誰一人として知りませんでした。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったでしょう。(コリントの第一の手紙 2:8)」 [GPNEWS]

神様の知恵、神様の能力、十字架の福音

キリストの中で完全な教会(4) 「どうか、わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるようにし」(エペソ1:17) 神様に出会う唯一の道は霊的に目覚め、私たちの霊の目が開かれ、心霊に霊の機能が蘇ることだ。私たちの鈍くなって呪われた霊が生きて居られる神様のみ言葉を理解させて、私たちの魂に話される。福音の真理を聞く時にその事が起こる。 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24) このためにはまず信仰を通じて私たちの霊の機能が蘇らなければならない。ところで信仰はどこから生まれるのか! 粗末な哲学や宗教や人間の数多い知識の言葉を聞くからといって成り立つものではない。神の生命、真理の福音を聞く時に私たちの死んだ魂が蘇って主を見ることになる。 中世に堕落したカトリックのように十字架救援の真理を覆い、行為で救われるという誘惑に目が回る瞬間、私たちは神様の呼び掛けを離れるしかない。行為救援のような考えは、まさに教会の堕落であり、腐って座り込んだ中世の暗黒時代を作り出した教会の悲劇だった。宗教改革に従う私たちの心が緩むと、神様の呼びかけを逃す恐れがある。 イエス·キリストはすべての世界の万物を統治し、治め、万王の王、万主の主になさる。そのように復活されて昇天されて、その栄光を回復された主が、十字架の死で連合させた教会を御自分の体にさせて万物の中で万物を充満させる方の充満だという。教会は外見上、みすぼらしいし、たいしたこともなく、軟弱な素焼きのようだと言える。しかし、その中にいらっしゃるキリストは栄光と能力と祝福に満ちた方だ。イエス·キリストによって命を得た人は世の中が耐えられない。世の中をひっくり返して歴史を揺るがした人々は、個人の人柄がすごい偉人や能力のある人々ではない。素焼きの中に宝されたイエス·キリストが歴史を変えて、世の中をひっくり返す福音の能力として現れたのだ。 したがって、教会は福音で新しくなることができる。教会は驚くべき主の約束、福音の栄光と能力と祝福で現れる。 それなら、私たちを神様の形でキリストの中に充満した者として完全な者に立てる神様レベルのことを神様がどのように成し遂げるのか! 絶望的な私たちにそのことがそのまま現れる秘密は驚くべきことに私たちが注目しなかったイエス·キリストの十字架の福音にある。人々にあれほど軽蔑されて愚かに見えるイエス·キリストと十字架の福音がまさに神様の能力であり、神の知恵だ。その十字架の福音の能力がまさに最も不可能な人生を丸ごと存在的にひっくり返して変化させる。そして、そのように変化した人間たちを通じてこの世が変化する。神様の最も完璧な知恵であり、最も完璧な能力がまさに十字架復活の福音であるのだ。これが秘密だ。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]神様が私に天国になる時

”神様は天国に行く唯一の道では終わらない。天国が天国なのは神様がそこにいらっしゃるからだ。” 福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。 人々はしばしば人生の重要な瞬間を「神様が私の世界をひっくり返した日」と描写する。思いがけない経験と対話、または試練が自分自身と人生、人間関係、周辺世界を見る方式を根本的に変える。私の場合には大学2年生の時、神様が私が考えていた天国をひっくり返した。 私はキリスト教の家庭に生まれ、愛が溢れるキリスト教徒の両親に育った。その事件が起こった時にも大学生だった私は明らかなキリスト教徒だった。ほとんど毎日聖書を読み、祈りを抜けなかった。正統教会に熱心に出席して周りには成熟して主に似ようとするキリスト人の友人たちであふれた。甚だしくは私は高校生に福音を伝えて彼らをきりすとの弟子にする使役にまで関与していた。その頃、ある瞬間、ある事件が起きた。それを一つの文章で言えば、突然福音が全く新しい意味で、全く新しい色彩で、そして新しい強烈さと喜びで私を巻きつけた。 私を福音の中にさらに深く導くためには、神様が先に私に会わなければならなかった。その出会いは実に甘い対面であり、最も満足できる訓戒だった。私が会った文章は私を座っていたその場で身動きが取れなくしてその後も決して私を去らなかった。 キリストは神を見て吟味するより、他のことをより尊く思う罪人を許すために死ななかった。キリストがいない天国でも、いくらでも幸せになれる人は天国に入ることができないだろう。福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。(ジョン·パイパー、神様が福音だ、47)。 今の時代に向けた質問 福音は人々を神様に導く道だ。福音は私を神様に導く道だ。それは荒廃と恍惚感を同時に与える珍しい悟りだ。なんで荒廃してるのかって?福音に会う前まで私たちがどれほど間違っていたかを悟らせるためだ。恍惚感は?一度も足を踏み入れたことのない土地、一度も航海したことのない海に出会うようで、想像もできなかった素晴らしい食べ物を食べる喜びを与えるからだ。 神様は天国に行く唯一の道で終わらない。天国が天国であるのは神様がそこにいらっしゃるからだ。神様は立派な食事だ。荒々しく驚異的な海だ。畑に隠した宝であり、貴重な真珠である(マタイ13:44-46)。 ジョン·パイパーは全く忘れられない驚くべき質問で、神様自身がどれほど卓越したプレゼントなのかを強調する。 私たちの世代だけでなく、すべての世代を問わず重要な質問はこれだ。あなたが天国に行ったとしよう。病気もなく、望むすべての友人がそばにいて、毎日好きな食べ物を食べて、各種余暇活動にまた毎日目の前で繰り広げられる自然の美しさ、味わうことができるすべての肉体的快楽に人間関係の葛藤や自然災害のない天国、そこで今あなたが生きているとしよう。ところでただ一つ、キリストがそこにいなければ、それでもそこがあなたにとって天国なのか?依然としてあなたは満足できるだろうか?(ジョン·パイパー、神様は福音だ、15) あなたはどうか。 私はどうなのか?これは私にとって天国自体を揺るがした質問だった。私はキリストがいない天国でも満足できるだろうか。そうでなければ、永遠に渇望するほど天国を本当に価値のある対象にするのがキリストなら、私は今なぜこの地でその方をもっと知り、より多く享受するためにもっと努力しないのか。 誰が天国なのか。 「福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。」神様は何とおっしゃるのか。その方が御自分について、そして福音と天国について本当にそうおっしゃるのか。 使徒パウロは神様が福音の中で最も大きなプレゼントであることを知った。”しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(フィリピの信徒への手紙3:7-9)。 世界のすべてを凌駕する真の宝物は、その方を知ること、その方を得ること、そしてその方を持つことだ。 キリストはなぜ十字架で死んだのか。使徒ベドロは言う。 ”キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。”(ペトロの手紙一3:18)。その方は私たちがただ許され地獄の苦痛から解放されるためだけでなく、私たちが神を持つように苦難を受けて血を流しながら死んだ。 罪がもたらす最悪の結果は硫黄の火ではなく分離である(テサロニケ一1:9)。様々な理由で地獄は苦しくて惨めだろう。呪われた者たちも依然として神の臨在を経験するだろうが(黙示録14:10)、それは恩恵と喜びではなく恐ろしい怒りだ。彼らは決して神を享受することができないだろう。 しかし拘束された者たちは”私は神の祭壇へと、わが喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。”(詩編43:4)と歌う。 ”命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさが永遠にありますように。”(詩篇16:11)。 喜びと楽しさがただその方のそばまたは周囲にだけあるのではない。何よりもその方の中に喜びがある。その方は喜びそのものだ。楽しみそのものだ。その方の居られる所が楽園だ。私たちが愛して渇望する他のすべてが消えても、その方さえいらっしゃれば、そこは楽園だ。 キリストの中で私たちは今も部分的にその方の臨在を経験する。そうだ。私たちの中に残ってある罪とその結果がその方の臨在を妨害するけど神様が私たちの喜びになる時、私たちは今も真の喜びを味わうことができる。私たちは日常で今も快楽、永遠の快楽を味わう。そのために、詩編42編のような祈りを捧げることができる。”鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。”(詩42:1-2)。 救いや許し、治癒や供給、安心や和解のためではなく、ひたすら神様を渇望する。神様がくださる善良で完全な贈り物を渇望するわけでもない。 そのすべての贈り物より遥かに優れた贈り物、まさに神様、その方を渇望する。 新しい空と新しい地で天国 天国を待って熱望する時、私たちの中の多くの人がヨハネの黙示録21:4のような約束にしがみつく。”彼らの目からすべての涙を拭いてくれるので、二度と死がなく、悲しみも泣き叫ぶことも苦痛もないだろう。以前のものが全て消えてしまったためだ。”これ以上の涙も、これ以上の死も、これ以上の悲しみと泣き叫び、苦痛もない。私たちはこのようなすべての苦痛が消えた世の中が与える甘さ、だから影が全くない世の中を想像することができない。 しかし、天国はただ悪いことがないところと定義されない。天国はすべてを満足させるあり(presence)と定義されるだろう。神様が私たちのために天国になる時、3節は4節が含んでいる貴重な約束さえも隠してしまう。 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 … そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、(黙示録21:1,3) 罪と悲しみ、死のない世の中よりもっと良いものは何だろうか。神様と共にする世の中だ。そうだ。その方は私たちの涙を拭いてくれるだろう。そうだ。その方は私たちの傷を癒して病気を治療してくれるだろう。そうだ。その方はついにその恐ろしい敵、死をなくすだろう。そのすべての祝福が無限に大きいけど、神様を所有して神様の所有になることに比べれば、そのすべての祝福は海のそばの水たまりに過ぎないだろう。私たちが流すすべての涙を拭いてくれる神様が私たちの神様だ。すべての癌を治す神様が自分自身を私たちに、つまらない私たちにくださるだろう。墓を空けて死を転覆させることができる神様が私たちのそばで永遠に私たちを守るだろう。 神様が私のためにできるすべてのことに目がくらみ、神様その方自体が私にどんな意味なのかを忘れるミスをしないようにしよう。水たまりで遊ぶのに夢中になって広大な海を逃す愚かな人になってはならない。神様を中心に置かないいかなる天国にも満足してはならない。 [福音祈祷新聞] |マーシャル·シーガル(MarshallSegal)||マーシャル·シーガルは作家であり、desiringGod.orgの責任編集者だ。 Bethlehem College & Seminaryを卒業し、韓国語で訳された「まだ結婚していないあなたへ」の著者である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

真の福は'福音を見ることができる目と聞くことができる耳'

福音に対する二つの反応(3) 福音が強力で単純で明確に叫べば聞き取れない人がいない。ところが、不思議なことに同じ祝福の福音を聞いても、心の状態によって反応が分かれてしまう。“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の 力です。(コリント第一1:18) 十字架の言葉が永遠、天国、尊さ、希望… このようなことなしで悪を抱いて生きる滅亡する者たちには愚かで無知な話に聞こえるけど、救われる人、すなわち心霊が貧しい者には十字架の言葉こそ彼らの人生を変化させる神様の能力なのだ。 ”ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知惠を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された 者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ伝えているのです。“(コリント第一1:22~24) ユダヤ人は自分たちが理解できるしるしを求め、異邦人であるギリシャ人は人間のレベルで理解できる知恵を探すが、ひたすら召された者にはユダヤ人であれギリシャ人であれキリストこそ神の能力であり神の知恵だ。 このように同じ福音を聞かせて手に取るように持ってきても心の状態がどうなのかによって反応が天と地ほど異なる。心で聞く耳が重要なのだ。"しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。"(マタイ13:16)霊的な目と耳が開かれ心霊で神の声を聞いて見ることができる福が真の福だ。人間になった神様、永遠で唯一の主であるイエス·キリストをわかるということは、人間的な知識や知恵では分からず、霊的な目と耳が開かなければならない。十字架の言葉を悟らずに信じられなければ、私たちは罪の中で生まれ、罪の中で生きて永遠に滅びることになる。だから十字架の言葉の秘密を見ることができる目、それを聞くことができる耳が'生きるか死ぬか'の永遠の運命を分ける途方もない福なのだ。2000年前、ダビデの町にナザレイエスとして来られたイエス·キリスト。その方をキリストであり生きている神様の息子として知ることができる目を持つ者が救いに至り、神様の国の民になり、神様の永遠の福を受ける。この福音が私たちの生命になるにはまさに私たちの霊の目と耳が開かれてこそ可能であるのだ。 心霊が貧しい者に福があるという言葉は歴史の中にそのまま現れた。 神様が人になってベツレヘムのナザレにある馬小屋にいらっしゃった時、赤ん坊で来られた。その時、東方の博士たちが訪ねてきて礼物を差し上げたが、彼らはイスラエル人ではなかった。正確ではないが、今のペルシアやイランの向こうから遠い道を来た。推察してみると、聖殿もあり、祭司もあり、イエス様と関連した予言が並んでいる旧約聖書を毎日抱いて生きてきたユダヤ人こそ、一番先にイエス様をわかるべきだったのではないか。ところが、彼らはついに人間の体を着て来られたイエス様に気づかなかった。むしろその昔イスラエル人たちが捕虜で連れて行かれたが時に伝えられた聖書の一部の中で'人類を救うメシアがユダヤの地に王として来られる時、本来あった星でない星で東方に浮び上がるだろう'というかすかな影のような予言だけを持つ東方人たちがその星を発見した。そして、その遠い道を巡礼者のように訪ねてきて、赤ちゃんイエス様に黄金と没薬と乳香を礼物として差し上げて王に差し上げる敬拝をして帰った。 (2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨン イ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

洪水前には気圧が2倍… いつもエネルギーが溢れていたはず

洪水の前は今とはずいぶん違っていたはずだ。その時は酸素量が今より多かったはず。酸素量が多ければ、体の治癒を早くする。もし気圧を2倍高めて酸素を増やせば、ヘモグロビンがいつものように酸素を受け入れるだけでなく、血漿も酸素で充満することになる。それは私たちが数百マイルを疲れずに走ることができるという意味だ。アダムとハワは車を必要としなかった。彼らはどこへでも疲れずに駆けつけることができたはずだ。 洪水で消えた気圧 実際、最近も高圧酸素で病気を治療している。テキサス州のジェシカという赤ちゃんが井戸に落ちた事件があった。18ヵ月の子どもの足が前後に開いたまま、8インチ(約20センチ)の鉄パイプの中に滑り降りた。赤ちゃんはその中で2日間閉じ込められていた。ついにパイプから出した時は、赤ちゃんの体の多くが血行不足で黒くなっていた。特に右足はゆがんでいたため、完全に黒くなってしまった。医師のうち1人は足を直ちに切り取らなければならないと言ったが、ある医師は足を切り取る前に子供を高圧酸素室に入れてみようと言った。子供は2倍圧力の酸素室に入った。2時間後にその子の足がピンクに戻った。足の小指の半分を切ることになったけど、足を守ることができた。 西ドイツでは中風患者を高圧酸素室で治療したら中風が驚くほど回復した。英国でも多発性硬化症とあらゆる種類の病気に高圧酸素室を利用したいる。インドではハンセン病を治療するのに高圧酸素が良い効果を上げた。 ある子供は高圧酸素で脳性麻痺の治療を受けている。医師らは手術中に麻酔中の人に酸素を加えると、感染件数が半分に減り、嘔吐件数も半分に減ることを発見した。ニューヨークでは高圧酸素で自閉症を治療したこともある。米国のスポーツチーム’ダラス·カウボーイ’は高圧酸素室を持っている。高圧酸素室で負傷した選手が2倍も早く治るのを発見したためだ。 オレゴンにいる私の友人も高圧酸素室を持っている。 私が訪問した時、高圧酸素室に入ってみた。友達は私に読む本を渡してドアを閉めながらこう言った。“ドアを閉めて普通より圧力を3倍高める。もう90フィート(約27メートル)下にダイビングする。” 私はその中で本を読みながら1時間の間に純酸素を3倍圧力で飲んだ。友達が私を取り出してくれながら聞いた。”気分はどう?”私はこう叫んだ。”世界中を走り回ることができそうだ。これは最高だよ!”洪水の前の全世界は気圧が2倍であって、そんなに多くの酸素があったとすれば常にエネルギーがあふれていただろう。 植物は酸素ではなく二酸化炭素を飲む。日本にいるある人が圧縮された二酸化炭素を利用してトマトを育てたら普通より早く大きくなった。トマトの木は2年生の頃に16フィート(約4.9メートル)まで伸び,約900個のトマトを実る。その後、その木はさらに伸びて40フィート(15メートル)になり、この一つの木から1万5000個のトマトが生産された。ミニトマトの木だったが、その木のトマトは野球ボールほどの大きさだった。 アイオワにいるある人は”なぜ鳥は日が昇る1時間前からさえずるのか?”という質問があった。彼は鳥のさえずりが葉細胞の気孔を開く特定周波数を出すことを発見した。葉を虫眼鏡で見ると穴があって、それが開いて二酸化炭素を入れさせる。朝、植物を起こす機能をするのだ。 そして、この周波数がクラシック音楽から多く出ることが分かった。それで彼はベートーベンとバッハ、ショパンの音楽を自分のトウモロコシ畑に流した。彼の隣人は彼が狂ったと思ったが,トウモロコシの木が15フィート(4.6メートル)に育つのを見てびっくりした。クラシック音楽をカボチャに聞かせたらカボチャの葉一つになんと5個ずつ開き、黒いクルミの木は普段より2倍も早く育った。ジャガイモは2~3倍の大きさで育ち、メロンはサッカーボールほどに育った。これを音波栽培とも呼ぶ。 [福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米ケント·ホーヴィンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホーヴィンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信頼体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 根本主義(2):根本主義の登場

イエスは言われた。”わたしは道であり,眞理であり,命である。わたしを通らなければ,だれも父のもとに行くことができない。”(ヨハネ14:6) ほかのだれによっても,救いは 得られません。わたしたちが救われるべき名は,天下にこの名のほか,人間には與えられていないのです。 (使徒行傳4:12) 聖書で神様は宗教に対して寛大ではない。サタンは私たちが神様を信じない限り、何をどれほど信心深く信じようが気にしない。神様が聖書とは違うどんな姿の礼拝でも受けると言うことは、聖書の神様を否定することだ。何よりも神様が与えてくれた最初の戒名は”わたしは主,あなたの神,あなたをエジプトの國,奴隷の家から導き出した神である。あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20:2-3)だからだ。 聖書を信じる人なら他の宗教も事実であり得るという可能性を受け入れることができない。キリスト教を本当に真理だと信じるのなら、それだけが独占的に真理に違いない。キリストが宣言した核心的なメッセージの一つがその方だけが真理を与えるという主張で、その方の真理から外れたすべての宗教はすべて嘘だということだった。 もちろん、このような意見は現代文化の相対論的な価値とは正反対である。多元主義と多様性は絶対的な真理よりも高い美徳とされている。私たちの信仰だけが正しくて他のすべての信念は間違っていると言えなくなっている。そう主張することは後戻りする、旧式の無礼な行動と見なされている。言い換えれば、私たちは宗教的信仰を持つことができず、ただ信仰を私たち個人の好みにだけ置くことができるようになったのだ。 実際、これらの問題は目新しいものではない。教会は少なくとも世紀の変わり目からこのような問題に取り組み続けてきた。宗教的基準と信念において幅広い考え方を持とうとするこのような訴えは、常に神学的自由主義の中心にあった。本当にこのような考えは、自由的(liberal)という用語が本来意味したものと正確に一致する。今流行している'寛容'にすべきだという訴えは福音主義陣営内部からの声だ。 自由主義は100年ほど前からプロテスタントの主要教団を占め始めた。かつて聖書の真理に献身していた学校は彼らが守るために設立したその教理を攻撃し始めた。プリンストン神学校(Princeton Theological Seminary)さえも長い間正統改革主義の砦であったが、結局は時代の思潮に屈してしまった。そのためにしばらくの間、福音主義は自由主義によって完全に圧倒され、壊滅したように見えた。 自由主義者は時代遅れであり,無知,悽絶に偏狭であることを福音主義の特徴にきめた。彼らはキリスト教はあらゆる種類の信念を幅広く受けるべきだと主張した。彼らは歴史的福音主義の狭くて独占的な本質がキリストを適切に代表することはできなかったと考えた。寛容と自由主義が現代キリスト教に適していると考えたのだ。彼らの主張が人の聞かせて始めた。正しい教理は妥協と自由主義に道を開けて、教会内で何も信じないことがむしろハイレベルと考え始めた。 ところが、その後、驚くべき運動が始まった。大西洋の両方から福音主義者が根本主義(The Fundamentals)という一連の執筆と出版で連合したのである。元々12冊で出版されたこれらの文章は、根本主義(fundamentalism)と知られる運動の土台を築いた。ジェイ·グレシャム·メイチェン、ジェームズ·オー、アール·エイ·トーレイ(J. Gresham Machen, James Orr, R. A. Torrey)のような人々が先頭に立って、根本主義は自由主義、聖書の高等批評、進化論、モダニズムと戦うために正しい教理を採択した。 根本主義に関する教理的な根拠は福音主義的聖公会、ルター教、長老教、メソジスト教、バプテスト教、メノ派教、独立教および他の教団を含めるのに十分だった。彼らが”根本(fundamentals)”であると確認した案件は、彼らが必須であり、基本的で妥協できない真理と考えられる教理であった。当然、この教理は自由主義と福音主義を区別する信仰の書であった。 原理主義者はこれらが真の教会を嘘のキリスト教と区別する教理だと信じていた。 では、彼らが同意した根本主義の文章は何だったのだろうか。 最も基本的なものは聖書の権威、霊感、無誤性だった。根本主義者らは、聖書高等批評をする人々に対して、聖書が文字通り神のみ言葉であることと、歴史的にも事実的にも正確であり、信徒に完全で唯一の拘束力がある規則だと主張した。こうした原則はもちろん、他の様々な問題の主が誰かを決める重要な原則だった。もし、私たちが聖書が権威があり、間違いのない神様のみ言葉だということに同意するなら、創造事件、キリストの処女誕生、彼の肉身の復活、奇跡のような歴史的な主張を論争する正当な理由がない。我々が聖書が信仰と実行の問題で唯一の権威だと信じているのなら、宗教的な推測や教会の伝統を聖書と並ぶことできない。 キリストの神聖、三位一体教理、十字架に対するキリストの代理贖罪、復活、信仰によって義に適うとしたこと、恵みによる信仰によった救い、聖化の必須性、他の根本的な教理を歪曲したり反対するすべての信仰を拒否すること、このすべての事案が"根本"として列挙された。 要するに,初期の根本主義者は自由主義者に対抗するために、真実なキリスト教を正義するために、正しい教理を用いた。自由主義者は実質的な問題だけを主張したが,理論的な部分ではそうではなかった。彼らがよく使う自由主義的スローガンは、"キリスト教は人生であり、教理ではありません"だった。しかし、根本主義者たちは、真のキリスト教が人生のすべての方面に影響を与える教理だと正しく主張した。 そのため、できるだけ広い範囲の信念を受け入れるために"キリスト教"という名称を快く拡大しようとする人々とは違い、根本主義者たちは絶対的で妥協できない客観的な真理の核心を探そうとした。彼らは正しい教理の本文がキリスト教のすべての基礎であると主張した。彼らにとって、根本(fundamentals)を拒否したすべての宗教のブランドは偽キリスト教または非キリスト教と見なされた。 原理主義者はほとんどの教団を自由主義の侵食から取り戻すことができなかった。しかし、彼らは歴史的な聖書真理に忠実な新しい学校、新しい教団、そして新しい教会を建てることができた。これらの機関は1世紀の間、活発な成長と霊的影響力を享受したが、主要教団の教会は深刻な衰退を経験した。 アメリカが依然として聖書を信じる健全な教会を持っていることは根本主義的先祖の業績だ。もし彼らが席を立てずにキリスト教の基礎を守っていなかったら,アメリカの教会の景観は今ドイツのような国で見られる荒れ地に似ていただろう。ヨーロッパの教会は,自由主義の偽キリスト教による壊滅的な損傷から回復したことはなかった。ヨーロッパの崩壊は、私たちにメイチェンのような人々の確信と勇気がなかったら、私たちはどうなっていただろうかということを深刻に考えさせてくれる。 自由主義に対する根本主義の闘争による利益は、今日まで影響を与えているが、根本主義運動自体は決して長生きできなかった。根本主義運動は頂点に達するや否やほとんど乱れ始めた。根本主義の分裂を理解することは、我々が今の福音主義の状況を理解する上で非常に重要な点だ。次回のコラムでこの問題について考える事とする。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]信頼されないリーダーシップは崩壊する

“もし私に従う人々が私の人格を疑ったら、私がどんな力量を持ったかはもう重要ではない。” 一つの材料が欠けると料理全体が駄目になることがある。 あるものは本当になくてはならない場合がある。他人を導く時、信頼されていなければそれは不可能だ。信頼こそリーダーシップの核心である。他人を導く役として呼ばれたとしたら、それはあなたへの信頼をきちんと管理せよと呼ばれたのと同じだ。学生は先生を信じたがっている。もし夫婦ならお互いに信頼することを願う。聖徒は担任牧師を信頼しなければならず、従業員は彼らの管理者を信じたがる。 信頼を失われた時、従う者は消える。 私もリーダーとして一緒に働く人々が私の力量を信頼してほしい。彼らが私の判断力を信じることを願い、またやってくる挑戦と機会をよく予測して私たちの組織を成功的に導く革新的な力量を持ったリーダーとして私を信頼してほしいのだ。私は妻と子供たちからもそのような信頼を受けたい。そして私はこの文を読むあなたも同じ考えだと思う。 しかし、このようなリーダーシップの力量は人格に対する信頼に亀裂が生じた瞬間、一瞬にして完全に崩れる恐れがある。もし私についてくる人たちが私の人格について疑うようになったら、私がどんな力量を持っているかはもう重要ではなくなる。 ではどうすれば信頼を築き、また強化することができるのか。 4つの実質的な方法がある。 1。真実を言え いつもそうしなければならない。キリスト人のリーダーシップなら、真実を語るのは当然だと思うかもしれない。しかし、人間なら誰でも例外なく、どんなに簡単に、見えないように、徐々に、偽りの沼に陥ることができるのか、またあらゆる方法を使ってでも真実を隠そうとするのかについて私たちは知っている。 当然、誰かの目を真っ直ぐに見つめながら嘘をついたりはしない。(これは霊的に非常に恐ろしい状況かもしれない)しかし、半分だけ真実を話しながら、ある事実について誤解の余地を残しておくのはどうか。もし一緒に仕事をする人があなたのことをこのように話すとしたら?”あの人の言うことは10%くらい信じればいい。あなたも知ってるでしょう?あの人がどんなに大げさなんだろうか。” 家、職場、教会のどこにいようとも、あなたが導く人達は、いつもあなたが真実を語る人だと信じられなければならない。聖書全体にわたって現れた神様は、徹底的に信じられる存在である。神様はいつも真実だけを言うので、我々はその方を信じることができる。他の人があなたに対しても同じことが言えるのか? 2。‘ごめんなさい’と言え あなたがリーダーなら‘ごめんなさい’という言葉に慣れなければならない。あなたはこの話を頻繁にするしかない。なぜなら、あなたは人々を失望させるに違いないからだ。あなたが判断ミスをすることもありうる。プランAが正しいと思ったのに間違えることがある。そして、その結果、人々を失望させて怒らせることもある。これとは異なるが、あなたが申し訳ないと言わなければならないもう一つの場合がある。あなたの判断は正しいけどそれを実行に移すために他人を苦しめなければならず、時には彼らのトラウマまで刺激しなければならない場合だ。 必ず大きい事で誰かを解雇したり、降格させるのではない。同僚に、または家族に、または教会の者に罪を犯したのなら、それは謝るべきだ。自分を弁護したり、正当化したい衝動に打ち勝たなければならない。あなたを批判する人たちが正しいとき、怒りをぶちまけたい衝動にかられてはならない。 もちろん、あるリーダーにとって“ごめんなさい”という言葉が一番辛い言葉だということを知っている。そんなこと自体を言わないリーダーに会ったことがあるでしょう。もしあなたがそのようなリーダーなら、警戒心を持たなければならない。その言葉を素早く、そして、謙遜に話す方法を学びなさい。そうする時、長期的にリーダーとしてあなたの精神に役立つだろう。 3。失敗を忘れずに成功を分けなさい。 もし何かが上手くいったら、みんな自分が上手くできたからだと言って、また何かが間違えた時は絶対に責任を負わないリーダーを見たことがあるか? なぜ売り上げが伸びたのか?もちろんリーダーのせいだ。なぜ売り上げが減ったのか?それは絶対にリーダーのせいではない。このようなリーダーは確かにマーケティング部署で見かけられる。私はこのタイプのリーダーは世間でだけ会えると言えればいいと思う。しかしそうではない。このような世間的なナルシシズムは、あまりにも簡単にキリスト教のリーダーとキリスト教団体を汚す。 上手く導くことは非難を避けないことを意味する。実際、あなたが重要なリーダーとしての役割を果たしているとすれば、たとえあなたの決定によって生じたことでないとしても、あなたの責任の下で問題が生じたとすれば、その結果に対してリーダーとしての責任を負わなければならない。リーダーがそうするとき、信頼が蓄積される。忠誠心は深まる。しかし、リーダーが責任を回避し、部下に後ろ指を指さす時、どれだけ早く社員が他の会社に履歴書を出すのかを見ることになるだろう。 この原則は家や教会でも同じだ。誰かを導く時,私たちは他人の代りに非難されるかもしれない。それは家でも同じだ。 4.責任感と独占欲の違いを学べ これは微妙だが、非常に危険な違いだ。それを正しく理解できないと他人があなたを信頼するのに大きな障害となりかねない。 導くということはある目標、戦略、そして人などに関してあなたが一種の無限の責任を負うという意味だ。それはしばしば一番先に出勤して一番遅く帰宅することかもしれない。それは、些細なことで小言を言わず、その代わりに全体の絵を理解して見つめる視線を育てることを意味することもある。リーダーは引き受けた責任について決してこのようなやり方でのんきなことを言うのはできない。”そんなことは気にしない”なぜなら、リーダーは責任を持つ立場だからだ。しかし、賢明な責任感と独占欲を混同してはならない。 例えば’私たち’と言うべき状況でも’私’という主語を使って話すこともできる。 あなたが一緒に働く人々、特にあなたの下にいる人々は’あなたの人またはあなたのチーム’ではない。(彼らが神様を信じる人かどうかに関係なく)クリスチャンの見方で彼らを神の形をした存在とみるべきだ。そして、私たちの究極の目標は、私たちが持つ権威と影響力を極大化して結局、彼らが神様の治めに屈服する時に享受する喜びを知り、その喜びをさらに充満させることだ。 この違いを理解することで、あなたは自己防衛のリーダーになることができて、そして小さなことには反応しないことができる。批判を受ける時、独占欲が強いリーダーほど自己防衛に陥り、相手を攻撃するのが常だ。誰かが異なった意見を出す場合に独占欲が強いリーダーは、それを個人的な攻撃として受け止める。チーム員が他の所に去った時、独占欲が強いリーダーはそれを裏切りだと考える。自己中心的独占欲が強いリーダーより、リーダーへの信頼をより容易に壊すものもないのだ。 手段としての信頼 信頼は本当に効果的なリーダーシップの通話手段(currency)である。それがなければ他人を導くことはできない。 信頼が組織内の新しいリーダーに付与されることもあるが、それはほんの少しの間だけだ。究極的にはリーダーなら誰でも自分だけの信頼を構築しなければならない。信頼を築くには数年がかかるけど崩れるのはあっという間だ。 リーダーとして誰でもミスすることがある。あなたの限界と弱点をいつも認識していなければならない。そして、誰もがリーダーとして生きていれば、人々の信頼を失いかねない。しかし、良いニュースがある。我々の救世主は不完全なリーダーを通じて働くというのだ。我々の救世主に完全な者はいない。我々は倒れても救世主は決して倒れない。それは本当にいい知らせだ。[福音祈祷新聞] “信頼は本当に効果的なリーダーシップの通話手段(currency)だ。それなしには他人を導くことができない” Matthew J. Hall | www.tgckorea.org このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、協約によって本紙に掲載されています。 <著作権者  ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞>問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

恐れないで信じることだけせよ

福音になったイエス·キリスト(4) 恐ろしい状況、絶望的な現実を目の前にした時は何を信じればよいのだろう。真理の約束を信じなければならない。 私たちには神様が約束してくれた約束がある。神様はおっしゃる。ヨハネ福音書11章25節~26節に“イエス は 言われた。わたしは 復活であり, 命である。わたしを 信じる 者は、死んでも 生きる。生きていてわたしを 信じる 者はだれも, 決して 死ぬことはない。このことを 信じるか。”と言われた。 この復活の望みがあるのか?私たちが復活することを信じるのか?我々からいくら可能性を探ってみても、我々は不可能だ。 私たちから出るものではない。 しかし、この復活の生命を持っている神様が私たちに復活の生命で生かせる。 “ヤコブ よ、あなたを 創造された 主は、イスラエル よ、 あなたを 造られた主は、今,こう 言われる。恐れるな, わたしはあなたを 贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの 名を 呼ぶ。”(イザヤ書43:1) 神様は東西南北、あちこちに散らばった自分の民を必ず地の果てから見つけ出し、神様のもとに戻らせる。どんなに深い所に落ちていてもそこから引き揚げ、神の名のために創造した者を来させる。 神様は御自分のものを絶対奪われない。 すべての闇が世の中を覆っているようだ。しかし夜が更ければ更けるほど夜明けが近づいてくるもの。世の中の情事と権勢と悪い勢力が神の教会を踏みにじり、敵対し、あちこちに暴れ回り、世界中を牛耳っているように大騒ぎをしているけど、決して終わりではない。聖書はこう述べている。“水が 海を 覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる。(ハバクク2:14)神様が誓約して宣布された言葉は、一点一画も落とさず必ず成就される。 神の国は、目に見えるどの敵の勢力よりも力強く今も前進している。神様の約束を取ってその約束を信じろ。状況に振り回されず、目の前にあることで判断するな。私たちの状況が、数値や統計が私たちを落胆させる。枯れた骨のように見える。しかし、私たちは敢えてむやみに言ってはならない。神様はむしろその時を恐れず、信じろとおっしゃる。原因分析はもうやめよう。ただ神様を愛して真理の道を選びなさい。神様のみを追いかけてきてすべて滅びたような時に覚えておけ。恐れずに信じることだけせよ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師·LOGミッション代表)