滞りなく流れる十字架の福音

キリストの中で完全な教会(8) 「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマの信徒への手紙6:12,13) 天地の歴史を変えるためには人を変えなければならず、人を変えるためにはその人の中心を変えなければならない。その中心を変える道は生まれ変わる道しかなく、献身する道しかない。それを可能にしてくれるのは十字架福音だ。神様と私たちの間のすべての問題を解決し、神様の完全な知恵と神様の完全な能力が充電されたのがまさにイエス·キリストの十字架福音だ。したがって、福音を聞かせるだけで御霊がこの福音の真理を私たちの魂の中に聞かせさせ、真理が照らしてくれる道に沿って行くようにする。主はガルボリ丘の十字架で死ぬことで罪=私だったこの悲しくて不可能な運命の病んだエゴをきれいに処理してくださった。そして復活されて神様の義と律法を全て成し遂げた。この事実を信じて、信仰から信仰へと従順に進む時、奇跡を見ることになる。 したがって、イエス十字架の福音なら十分だ。教会はこの福音を命のようにつかんで叫ばなければならない。神様の永遠の栄光を慕い、天国が実際になった人々が一体となった教会になる。罪を憎み、キリストの中で兄弟になった生命で、ただ主の栄光のために教会に仕える。これこそこの世で私たちが享受する天国だ。このような教会を通じて、主は我が民族を変えることができる。何も言わなくても自然と宣教的存在になる。 ところが教会に通いながら福音を信じながらも、最も重要な救援と私の人生の主権を譲り渡した献身の分岐点がなぜこのように私たちの中に薄いのか。まさにこのすべてのことを可能にするようにされたのが十字架復活の福音だ。十字架の復活の福音が実際に直面したら、この変化が起きざるを得ない。 そのように変化した聖徒と聖職者、教会はその能力でキリストが全てを主張することができる。キリストの救いの福音が滞りなく流れていく教会を誰が阻むだろうか。聖徒の数や教会の建物や教団とは関係ない。この十字架福音が力になった聖徒と教会を通じてのみ、福音の能力が力強く流れ、私たちの周辺の人々を変え、民族の流れを変えることができる。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

キリストの中で完全な教会(5)

「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい

福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。

福音に対する二つの反応(2) 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。 天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。 “この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15) 自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。 “もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29) 衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。 このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

福音は世間の常識では理解できない価値である

福音に対する二つの反応(1) 肉体を着て地を踏み込んで生きていく私たちの人生は、食べて、飲んで、結婚して、売買しながら目に見える人生を熱心に生きていく。ただ目の前にある現実を急いで生き抜くのに忙しい私たちにある日突然全く経験したことがない別次元の世界が現れたら、その世界は理解不可能だ。肉体を着て有限な世の中を生きていく私たちが最も理解できないことの一つが永遠の神の国だ。天国からこの地に来られた神様が聞かせてくださった無限で永遠の神様の国と永生、そして神様が治めるという言葉こそ人間が想像できない神秘的な次元の話だ。 異邦人は神様の言葉の基盤がなかったので全く聞き取れなかった。しかしユダヤ人たちはすでに奇跡と予言を通じて受ける準備ができた選んだ民族だった。神様はイスラエルを啓示の伝達者として使うために特別に選んだ。神様の言葉を先に任せながらどの民族にも許さなかった生きておられる神様を経験させてくださった。 主はこの地にいらっしゃる時、当時一番華やかで注目されたローマや中国西安ではなく、最も小さくてみすぼらしいイスラエルの地に来られた。神様はすでに約束してくださったユダヤ人たちに言葉通り肉体になって来られたイエス様を通じて次元が違う神様の国の秘密をこの歴史の中で啓示された。 神様が聞かせてくれた天国の宝のような言葉のうち、マタイ福音書5章から7章までを山上報勲という。山の上で神様が施してくださった宝物のような教訓という意味だ。神様は当時どこでも聞いたことのない驚くべきことを言う。ユダヤ人が神の民と言っても霊的な秘密をよく知らないため、神の祝福を富国強兵や太平盛大など目に見えるこの地のものに例えて、彼らの理解可能な水準で伝えた。神様に従う時は国が富強でうまくいき、不順な時は苦労する。 ‘ああ、神様に従えば福で、不順なら呪いだ!’ということを肉体でも悟り、すべての生死禍福が見えないけど生きておられる神様にあることを知らせようとされた。 すべての生死禍福が生きている主にある。 しかし、神様が来て基礎しか知らないユダヤ人たちにおっしゃった天国の福は私たちの常識を破る話だった。”心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”(マ5:3~5)このすべての話は世間とは全く違う価値だった。 この驚くべき言葉は神様なしにこの地に住みながら目に見える人を恐れて現実だけに反応する人たちにおっしゃった言葉だ。 “祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。”(マ6:5~6)(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師) LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

数多い証人たちの告白”生きるためにはこの道を選択せよ!”

コロナ19に反応する私たちの姿から、私たちの実力がそのまま現れた。真の礼拝とは何か、我々の真の信仰とは何か、霊的な権威とは何か、我々の祈りの実力はどうだったのか…。 教会の様子から私の霊的状況がいかにみすぼらしいかが明らかになった。私が信じるというその信仰の実体が何なのかも。’私くらいなら結構いけるじゃない?’ 普遍的基準に自分を照らして安心していた信仰の実情が明らかになった。私が頼りにしてプライドを持ってた自分の安定感の土台が何だったのかがすべて明らかになった。 見える世の中にだまされて生きてきたことは否定できない。信じているお金、他人の認定、評判に縛られて泣き叫んだそのすべての基準になったこの世界が一瞬にして飛んでいける空しいものだということをコロナ19を通じて経験した。 大切だということは知っているが忙しいという理由で、忙しくて祈れず霊的なことを考える暇もなく、忙しく洗練された生活を送ってきた私たちの日常。コロナ19でその日常が止まった今、何が一番心配なのか?何が一番怖いのか?多くの人々が限界にぶつかり、恐ろしい不渡りを経験し、失敗を受け入れなければならない厳しい状況を迎えている。 専門家たちはコロナ以前には戻れないと言う。 彼らは伝染病が世界を完全に変えるだろうし、政治、経済、社会、技術、法、制度、環境などの巨大な変化が起き、変化の衝撃は数十年間続くだろうと言う。 しかし聖書は、今こそ恩恵を受けるべき時であり、今こそ救援の日だと語る(コリント第二6:2)。明日ではなく今日、次ではなく今だと言う。今こそ恩を受けるべき時であり、今こそ救いの日だ。 生きている神様の言葉をひたすら信じて従順にすることが単純で明確な結論だ。 しかし、これを人生の結論として受け入れることができずに二つの心を抱いて混乱してあちこちぶつかる間に人生は過ぎ去ってしまうのだ。結局、振り返る機会もなく滅びる人をどれほど多く見るべきか。信仰なしで生きる人生の終わりを見ながらも、いつ頃になったら神様の真理のお言葉に従順すると結論づけることができるだろうか。まだ結論を出していないなら、雲のように取り囲む証人たちの話を聞け。彼らが一様に叫ぶ言葉がある。 “信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事實を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。”(ヘブライ11:1~2) 彼らは’神様がいない’という人生と歴史の真ん中で肉身の本性をさかのぼってただ信仰で神様中心の人生を生きた。私たちと同じ罪人として生まれて永遠の勝利者として生きることができたのは、彼らにとってとても単純で明確な結論があったからだ。 ‘生きている神様をひたすら信仰で永遠に変わらない真理に従順に生きていくこと’だった。 肉体を身につけているが、霊として生きる者たちであり、土を踏み入れて暮らすが、天に属する者だった。雲のように取り囲む数々の証人たちが叫ぶ。”この道しかない! 生きるにはこの道を選択せよ!”(2021年1月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師(巡回宣教師) LOGミッション代表) <著作権者> ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

より大罪人に託した恵みの務め

より大きな罪、より大きな恩(7) “わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない. ”(へブル人への手紙10:38) 私たちは後に退いて滅亡するような者ではありません。ただ魂を救うことに至る信仰を持った者だとおっしゃる。背水の陣を敷くという意味である。後に退く余地を考えてはならない。帰る道はない。福音の真理を信じる信仰以外は滅亡しかない。 このような強い心で帰り道を断ち切った人、帰り道のない人、その人はもう迷ったり悩んだりしない。なぜなら、一つの道しかないからだ。数多い挑戦の中で、より大きな罪人に臨んだより大きな恵みを私たちに与え、決してためらわないようにする。 私たちは必ず神の前でその栄光を手にするだろう。 驚くべきことに、パウロは言う。“わたしを 强くしてくださった、わたしたちの主キリスト · イエスに感謝しています。この 方が,わたしを 忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。”(テモテへの第一の手紙1:12) これは罪人の中の怪獣だった私にその恩恵がどれほど大きいかを知ってもらうためである。パウロは誹謗者であり暴行者であり、殺人者だった自分を神様が忠誠心をもって受ける資格がない自分に恩としてこの職分を任せてくれたと告白する。一番大きいの罪人であることを知る者に、表現できない恵みの福音の使命を託す。 イザヤ書6章には、ウジヤ 王が 死んだ 年、絶望の中で聖殿の前でうつぶせになったイザヤに、天の栄光の玉座を見せてくれる場面がある。 神様の偉大の前に立つイザヤは”災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも,わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。”と嘆く。その時、神が天使を送り、燃えている炭を持ってきて彼の唇に当てて宣言する。“見よ、これがあなたの 唇に觸れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。”大きい恩みを受けた彼に神様がおっしゃる。”誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。” (イザヤ6:8) ‘この世をこのように愛し、一人っ子を与えてくれて想像もできないこの大きな恩みの十字架の福音を誰が知って、この言葉を持って希望のない者たちに行くのか’と主が尋ねる。絶望した彼を神の恵みで清潔にする。彼は言う。’わたしがここにおります。わたしを遣わしてください’ 福音の前に立って希望のない私を救ったこの大きな恩みの前に立つ者は、主の栄光の呼びかけに答える。 “しかし,わたしが憐れみを受けたのは,キリスト · イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり,わたしがこの方を信じて永遠の 命を得ようとしている人々の手本となるためでした。”(テモテへの第一の手紙1:16) 誰がもっと大きな罪人ですか? 誰が何の望みのないあきれた罪人ですか? この感激に捕らわれた罪人の中の怪獣、福音のために一生を捧げたパウロが監獄で叫ぶ。私は罪人の中の怪獣だ。真実である。すべての人が受けるに値するこの言葉よ。キリストキリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった。これは一人の告白ではない。すべての人類の告白でなければならない。恩みの福音だけが生きて居られる主のもとへ帰れる唯一の道だ。あきれるほどの危機と悲惨な罪の中で我々を呼んだこの福音を宣言し、忍耐と信仰をもって進もう。 (2018年5月)<終わり> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org