復活の十字架福音にぶつかったのか?
神の約束と誓い(10) 私の人生の主権を主に委ねた献身の決断はいつだったのか? 復活の十字架福音に命としてぶつかれば、この変化が起こらないはずがない。キリストが私の人生の全てを主張されることができる変わった聖徒、変わった聖職者、変わった教会は主のために生きるようになる。 ローマ人への手紙14章7〜9節には、イエスの復活の十字架福音が私たちの内に生まれ変わった新しい命を与え、私たちの献身を通じて私ではなく、ただイエス・キリストが生きられるとき、私たちの内に起こる非常に顕著な変化が記されている。「私たちの中に誰でも自分のために生きる者はいないし、自分のために死ぬ者もいない。私たちが生きても主のために生き、死んでも主のために死ぬ。だから、死んでも生きても私たちは主のものである。これをためにキリストは死んで、また生き返られた。それは、死んだ者と生きている者の主となられるためである。」(ローマ14:7〜9)イエスの十字架復活の目的は、私に対して死に、ただイエスに対して生きるようにさせることである。だから、キリストを命として出会い、変わり、献身した人なら主のために生きるのである。 天の父が空に飛ぶ鳥さえも養い、衣を与えているのに、何を心配するのか。あなたたちは財閥の子どもよりも偉大な神の子、娘なので、何も心配せずに神の子どもらしく神の国とその義を求めるように言われている。主の祈りの核心は、神の名が聖なるものとされ、あなたの国が来ることである。この地に神の国が来なければならない。私たちの希望は、この地に、私たちの心の中に神の治めるところ、天国が来ることである。主人が変わらなければならない。私から主に変わるのである。私たちは二人の主人に仕えることはできない。ルカ9章23節の言葉のように、自分を否定し、日々自分の十字架を負わなければ主に従うことはできないと言われている。 私たちの中心が変わったのか? 人間は自分を崇拝するほど自分を愛している。しかし、十字架を通過した人は、自分がこれほど愛し、大切にしていた古い自己が解決された人である。人を変えることが最も重要である。この福音がなければ古い自己を処理する方法はない。その古い自己である私に対して十字架で処理されなければ、罪から自由を得ることはできない。これがなければ、何も変わったことはなく、何も楽しむことはできない。 目の欲、肉の欲、この世の誇りはすべて私たちの心を刺激し、淫らさや不正、私欲、悪しき欲望、貪欲を助長する。ドラマ、歌、芸術、文化など、すべての世の中のものは世俗的で肉的であり、私の古い自己を追求することに満ちている。世を愛することは結局、自我の愛である。 ひどく自我を愛していた者が変わるとこうなる。「あなたたちはイエスを見たことがないが愛している。今も見たことがないが信じて、言葉にできない栄光に満ちた喜びで喜んでいる。信仰の結果は、魂の救いである。」(ペトロ1:8〜9) (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com