[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?

あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

世間と区別された聖なる

バーネット·ニューマンの「ハナイム(Onement) ユダヤ系米国人画家バーネット·ニューマンが1948年作<ハナイム(Onement)>を初めて発表した時、多くの学者がニューマンの描いた「帯」がどういう意味か熱い論争を繰り広げた。 筆跡もほとんどない平らな背景に明るい色の線が一つ引かれただけだった。攻撃的で激情的な作品を描いた抽象表現主義者たちはこれまで自分たちと付き合っていたニューマンがこのように単純な画面を描くや、つい裏切られたと感じた。しかしその後もニューマンは「帯」を描き続けた。そして創造、始まり、約束、アダム、イブのような’創造’にかかわるタイトルのためにニューマンの帯は’光あれ’という神様の命令を描いた抽象画で知られるようになった。 ある人はニューマンの帯は二つに分かれるという意味だといい、ある人は神様と人間の間の約束(covenant)を意味するとも言った。ある人は彼の絵で神様の前に立つ人間を見た。題目は‘一つ’と関係があったが,多くの人がニューマンの絵で’分ける’と’区別’を感じた。 しかしニューマンの帯は事実‘聖なる’と関連がある。ユダヤ人は精潔食の律法に従ったが、ヘブライ語でこれを’カシャロット’と呼ぶ。 ‘カシャロット’は,‘カルドシュ’から由来された。ここで、カドシュやカシャロットはすべて‘区別’の意味と関連がある。ローマ書でパウロは“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。”と言ったが、この神聖な区別もカドシュを意味する。 また、神様は私たちに“あなたがたは 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである”と‘命令’された。すなわち、世の中からの区別は神様と一つになる聖を指す。世の中に住むが区別され、神様と一つになった聖徒の人生。背景の真ん中に描かれながらも、色は区分されたニューマンの<一つ>は、まさにこのような聖徒の人生を描いたのではないだろうか。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 『著作権者ⓒ福音祈祷新聞』本誌の記事は、国々を抱いて祈る方々に使えるよう許容しています。出典「福音祈祷新聞」を明らかにして使ってください。 ご活用の方は本紙にてお知らせください。 連絡先:gnpnews@gnmedia.org