イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい

福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。

福音に対する二つの反応(2) 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。 天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。 “この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15) 自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。 “もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29) 衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。 このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

君は私の栄光そのものだよ。

"神様、私が成功したら、人々に神様が能力を与えてくださったと言います。"しかし、神様は私たちの本当の心を知っておられる。'自分'の栄光のために神様をボーナスカードと思っているということを。しかし復活の主はそんな私たちの手を握って永遠な道を見せてくださる。"君が成功してこそ私が栄光になるわけではない。君は私のの栄光そのものだよ。" "彼らは皆,わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり,完成した者。"(イザヤ書43:7)[福音祈祷新聞] 絵 イスジン <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

大罪人がいるだけで適当な罪人はいない。

より大きな罪、より大きな御恩み(6) さらに大きな罪人がいるだけで、大体罪人などいない。ただ大罪人に対するより大きな御恵みがあるだけだ。だからもうその御恵によって行くその道は何も見えなくても行く道であり、自分の計算と自分の手の力で行く道ではない。 “あらゆる 惠みの源である神,すなわち,キリスト イエス を 通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった 神御自身が,しばらくの間苦しんだあなたがたを 完全な者とし, 強め,力づけ, 揺らぐことがないようにしてくださいます。”(べテロ一5:10) 神のより大きな恵みに託された人生なら喜びなさい。滅びることはできないし、失敗することはさらにない。より大きな罪人であることが明らかになればなるほど、より大きな御恵を期待することになるだろう。大きくて完全な神様の御恵みの生命に囲まれているという事実に気が付く。途方もない福音を受けていながら無視したり裏切ったりして神様も天国も審判もないように生きることよりもっと恐ろしい呪いはない。それで、決して普通の人生を生きることができない。自分を信じたり頼ったりしないで、もっと大きな罪人に与える大きな御恵を見つめなければならない。 神様が誹謗と苦痛の中で人の見せ物になり, あるいはこんな状況に置かれている人たちの仲間になれた。喜んで君たちがそのすべての困難を耐え忍ぶのは、より良い永遠があると知っているからだ(ヘブライ10:33~34)。神様は“現在の苦しみは,将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないとわたしは思います。”(ローマ8:18)と言う。想像もできない天の永遠な報いがある。神様は確信を捨てるなと言われる。(ヒ10:35)。 福音の中にある最大の罪人である私が発見したより大きな御恵、この恵みの福音を決して恥ずかしがってはならない。福音は人々と諸国を生かす。私は希望なく無能であり絶望そのものである。しかし私を呼んだその御恵の福音が信頼の道に立たせ、不可能なこの道を行くようにする。失敗した話のようでつまらない話のようだが、人生を覆して本当の変化を与える福音がまさに生命になった十字架福音であるのだ。パウロは、どんなローマの権勢やヘラの哲学の前でも、この福音を恥じることがなかった。すべての信じる者に救いを与える神様の能力であるからこそ、この福音を誇るだけだった。 “神の御心を行って約束されたものを受けるためには,忍耐が 必要なのです。”(ヘブライ10:36) 私たちには忍耐が必要だ。肉体の練習だけでも大変な峠を越えるたびに、違う境地が開かれる。私たちに下さる神様の御恵みは無限であり、もっと大きな恵みがあるからこそ忍耐せよと言われる。神様のみ旨を行った後、約束したものを受け取るために神様の回答に焦点を当ててその方だけを期待するようにと言われる。苦難、疾病、苦労、無念、もどかしい心情、終わりそうもない暗いトンネル、呆れた状況と絶望の前に座り込んでいるなら覚えておいてほしい。夜が過ぎて夜明けが来るよりも明らかに、神様がいらっしゃる。(2018年5月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

信仰の生、困難と苦難は当然の理

  より大きい罪、より大きい御恵み(5) “あなたがたは,光に照らされた後,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してください。”(ヘブライ人への手紙10:32) 神様は福音の光に照らされた後、苦難の大きな戦いを耐えたことを考えるように勧められた。逃れられない罪、ユダヤ指導者たちとユダヤ人が犯した、知っていながら犯した大罪よりも恐ろしい罪を福音の黄金時代に生きる我々が今犯すことができる。私たちの古い自分に属するものを依然として残し、普遍妥当に福音を道具にして福音を知る自分として武装しているのではないか。依然として最後の余地を絶たなかった私たちの態度が、もしかしたらもっと大きな罪人であるかもしれないという事実が私たちを恐ろしくさせる。 しかし、私がより大きな罪人という事実を知り、経験すればするほど、神様の御恵みが最も大きくて永遠な福音であることを分かるようになる。私たちには臨まれない御恵を施してくださって、さらにより大きい罪人であることを知る者に与えられる神様の祝福である。これからは、もっと大きな罪人が、ただ信仰だけで見つめて捕らえるべきより大きな御恵み!我々のすべての限界と不可能を超える十字架と復活の御恵みがどれほど大きいかはより大きな罪人でなければ分からない。 より大きい罪人に与えられた十字架と復活の御恵 そして、正しく福音に従い、信頼に行ったからこそ、受ける困難と苦難は当然のことだ。福音の道である真理の狭い道を歩もうとすれば、必ず苦難の戦いが起こるしかない。 まずは自分自身との戦いだ。昔の情、昔の自分の古い習慣が揺れ続けて誘惑する。自分だけを追求していた普通な人生が、今は主の信仰の旅路に従って歩こうとする時に抵抗を受けるようになる。魚一匹さえも波に逆るとすればあらゆる波に抵抗しなければならないように、世の中は私に対して決して友好的ではないのだ。イエスに従って真理に従う私たちに対して世間は私たちの味方ではない。神様はその光を受けた後、苦難の大きな戦いに耐える私たちに愚かではないと言われる。途方もない福音を受けて知っていながら、福音にそっぽを向いたまま無視して裏切れば、これより大きな罪があるはずがない。これよりもっと恐ろしい人生はどこにあるだろうか。 世の中は私に対して絶対友好的ではない 将来滅びるこの世界、我々の目に華やかで大きくて強く見えるすべてのものの中で、永遠なものは何もない。天下を覆しそうだった英雄たちも、その命を少しも延長することができなくて正確に死んで埋められた。誰もこの地に留まる者はいないし、一瞬も立ち止める時間もない。必ず通り過ぎる。時間はより早く私たちの人生の残り道を急ぐだろう。私たちが去ってきたのは将来滅びる’長滅城’だ。再び戻る道はないし残った道を最後まで進まなければならない。信仰で歩くこの道は、触って感じて感覚する道ではなく、ただ信仰で永遠の天国、永遠の神様の国に向かって進む道であることを記憶しなければならないのだ。 (2018年5月)<継続>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 : 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org