[GTKコラム]根本主義(3):根本主義の衰退

私たちは根本主義運動の先駆者に大変な負い目を負っている。悲しいことに,過去の世紀に彼らの戦いの必要性を理解するキリスト教徒はほとんどいない。彼らが大胆に乗り出さなかったら,多数のアメリカの教会が宗教改革の心臓部であったヨーロッパを霊的に荒廃させた,偉大な力を持つ神学的自由主義の影響に降伏していただろう。 元々根本主義者たちは聖書的教理が軽く受け入れるにはあまりにも貴重だということを理解していた米国の神学者たちと牧師たちだった。彼らは聖書の無誤性、キリストの唯一性、復活、永遠な生命と永遠な呪いの現実、人間堕落のような根本的なキリスト教の真理を断固として弁護した。この初代の根本主義者たちは神様のみ言葉に対する固い意志と真理に対する交渉を拒否することで勝利した。これが、自由主義が米国教会の景観を絶対覆せない理由であり、聖書を最高に考え、福音を忠実に伝える教会が今にもある理由だ。 しかし、悲しいことに、根本主義運動は初期に成功するや否や、ほぼ同時に緩み始めた。学問的に認められるために必死だったある集団の根本主義者たちは、時代の流れであった多元主義から自分を守ることができなかった。神学的自由主義に対抗して設立された学校は、自由主義神学に過度に露出されて、初期の根本主義の強力な立場(聖書の無誤謬)を放棄し、聖書の無誤謬について妥協し始めた。驚くべきことに、一部の根本主義学校と教会は、創立した一世代が過ぎる前に、聖書の無誤性に対する彼らの献身を放棄してしまった!これらの機関と関係のある人々の大半は速やかに「根本主義者」という名を否定して捨てた。 もうひとつの根本主義の集団は反対方向に動いた。彼らは学問的に認められることに執着していた仲間たちが、根本主義の基本をあきらめてしまったことをよく知っていた。そのような理由で彼らは学問に不信を抱いたり、または学問を完全に捨ててしまった。このような根本主義的運動の右派は争い好きの分離主義者によって絶えずに分裂してしまった。彼らの中で律法主義者たちは外面的に現われる問題だけを極度に強調した。時々些細な問題が主な討論や議論となり、重大な教理を代替することがあった。これらの群れは、信者たちの実在的な根本を守るための時間よりも多くの時間を人々の髪の長さや女性の服装など重要でない問題を討論することに多く時間を費やした。 つまらない口論を好むすべての極端な律法主義者はついに根本主義という用語を傷つけてしまった。知能的にも気質的にも,この集団の根本主義者たちは根本主義運動の父達があれほど強力に守ってきた高い信念を完全に捨てた。その結果,根本主義運動は教理を巧みに軽視する誘惑に負けてしまった。この集団の根本主義者たちが出版した資料の中に、真の教理的または聖書的な深みを持った重要な著作物が全くないという点は注目に値する。そして、「根本主義者」という用語は、この好戦的な群れの代名詞になってしまった。 ここ数年、根本主義者という言葉は世俗的なマスコミによって誤用されてマスコミは自分たちが考えることのできるあらゆる宗教的狂信者にこの名前をつけた。 門を広く 初期の根本主義の論理的で神学的だった精神はすべて死んだ。 現代の福音主義者はあまりにも喜んで教理を過小評価している。根本主義的な先輩たちとは異なり、現在多くの人々は真のキリスト教が幅広く異なる―その上矛盾である―信仰体系まで受け入れるほど十分に広がらなければならないという提案に完全に同意している。多くの福音主義者は根本的な教理上の違いにかかわらず、カトリック、東方正教会、極端な恩賜主義者、自由主義者を自分たちと同じように考え、彼らとの霊的同盟を結ぶために努力している。 歴史的に福音主義者と根本主義者はほとんど普遍的にエキュメニカル運動を拒否してきた。エキュメニズムの主な力は世界教会協議会(World Council of Churches)であったが、聖書的なキリスト教は全く関係なかったこの団体は、超自由主義的な教団の中から会員を募集することを好んだ。結果的にエキュメニズムは、福音主義者に少しも影響を及ぼすまでには至らなかった。 エキュメニカル運動の最も栄えた時代であった1960年代にも、福音主義教会は劇的な成長を経験してエキュメニカル教会は急速に衰退した。10年前の世界教会会議は失われた運動の遺跡のように思えた。 しかし、今やその絵が変わっている。驚くべきことに、今最も強力なエキュメニカル勢力は、沈みつつある福音主義の下で、恩賜主義運動、カトリックと福音主義の一致、協同的な大衆伝道、そしてキリスト教言論界の声とともにある。 高さを下げる 主な福音主義の特性である「根本」を剥奪しようとする攻撃的な努力が続いている。福音主義の影響力のある声は、根本を最大限受け入れられる最も単純な"信仰の陳述(the Statement of Faith)"に変えるように促す。そして、こうした声は全般的な福音主義の中で聞くことができる。より広い寛容とより包括的なものを訴えるのは,恩賜主義者,世代主義者,カルヴィン主義者,アルミニアン,改革主義者,ルーサー教の指導者,すなわちあらゆる種類の福音主義者から来ている。 (2013年に死ぬ前まで)トリニティ放送ネットワークの会長だったポール·クラウチ(Paul Crouch)を例に挙げると、彼は"私がよく言っているように、ある神学者が異端だと考えるのが他の神学者には定説です"と述べた。しかし、クラウチは我々が我々に一機に与えた信仰のために力を尽くして戦わなければならないというユダ書の3節を知っていた。彼は言った。"それなら『信仰』とは何か?" クラウチは、絶えずに成長する人々の声のなかで、使徒信条が「信仰」に属する者とそうでない者の境界線となるべきであると主張した。しかし使徒信条が果たして我々にキリスト教信仰の最も確かで交渉できない根本を提供するのだろうか。そして、私たちは使徒信条がどれほどこのような問題に対して権威があると自信を持つことができるか。次の時間に、この点について見ていくことにしましょう。 キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

イエスの目には何が込められてたのだろうか?

バケツから水を浴びようと、 子どもたちが我も我もと手を伸ばす。指の間から流れ落ちる水が汚れを洗い流し、気持ちよく体と心を濡らす。微笑んで水を注いでいる少女の目には今何が込められているのだろうか。 神様は罪で汚れた人生をきれいにするために一人子であるイエスを十字架につけられた。罪のないイエスが十字架で死んで復活したことで、我々は新しい生命を得た。 イエス·キリストが流した血ですべての罪人は貞潔になった。罪人が貞潔になる瞬間、イエス·キリストの目には何が込められていたのだろうか。破壊される罪の押さえつけと爆発してしまうサタンの嘲笑と打ち砕かれる罪のくびきと…。. 称えよう!イエスが私たちを救って情潔にさせた。私たちを愛する神様を心を尽くして敬拝しよう! "この日にあなたたちを淸めるために贖いの儀式が行われ,あなたたちのすべての罪責が主の御前に淸められるからである。"(レビ記16:30) [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

霊魂の中に植えておいた神様の形象を探す。

“あのね!一緒に遊ぼう。ここに座ってみて。私の横にくっついて。足を伸ばしてみて。足を合わせてみよう。”砂場に座って狭い肩を重ね、手も合わせて、くっ付いて座ったもので遊ぶ準備は終わり。友達の足を順番で触れながら歌を歌い、歌が終わる時にかかった友達が鬼になる。お互い似ているが、それぞれ違う形の足の指を見て笑ったりもする。友達の暖かい体温を通じて、うれしく楽しい気持ちを共有しながら幸せな1日を過ごす。 子供たちは見ただろうか。私のものと友達のものを比較しながら笑ったその足の指と、友達の体温と、明るい笑いの中にあった神様の形相を。魂の中で発見できる神様の形象がどれほど美しくて甘いものであるかを、ぜひ発見してほしい。 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)[福音祈祷新聞] <著作権 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

大罪人がいるだけで適当な罪人はいない。

より大きな罪、より大きな御恩み(6) さらに大きな罪人がいるだけで、大体罪人などいない。ただ大罪人に対するより大きな御恵みがあるだけだ。だからもうその御恵によって行くその道は何も見えなくても行く道であり、自分の計算と自分の手の力で行く道ではない。 “あらゆる 惠みの源である神,すなわち,キリスト イエス を 通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった 神御自身が,しばらくの間苦しんだあなたがたを 完全な者とし, 強め,力づけ, 揺らぐことがないようにしてくださいます。”(べテロ一5:10) 神のより大きな恵みに託された人生なら喜びなさい。滅びることはできないし、失敗することはさらにない。より大きな罪人であることが明らかになればなるほど、より大きな御恵を期待することになるだろう。大きくて完全な神様の御恵みの生命に囲まれているという事実に気が付く。途方もない福音を受けていながら無視したり裏切ったりして神様も天国も審判もないように生きることよりもっと恐ろしい呪いはない。それで、決して普通の人生を生きることができない。自分を信じたり頼ったりしないで、もっと大きな罪人に与える大きな御恵を見つめなければならない。 神様が誹謗と苦痛の中で人の見せ物になり, あるいはこんな状況に置かれている人たちの仲間になれた。喜んで君たちがそのすべての困難を耐え忍ぶのは、より良い永遠があると知っているからだ(ヘブライ10:33~34)。神様は“現在の苦しみは,将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないとわたしは思います。”(ローマ8:18)と言う。想像もできない天の永遠な報いがある。神様は確信を捨てるなと言われる。(ヒ10:35)。 福音の中にある最大の罪人である私が発見したより大きな御恵、この恵みの福音を決して恥ずかしがってはならない。福音は人々と諸国を生かす。私は希望なく無能であり絶望そのものである。しかし私を呼んだその御恵の福音が信頼の道に立たせ、不可能なこの道を行くようにする。失敗した話のようでつまらない話のようだが、人生を覆して本当の変化を与える福音がまさに生命になった十字架福音であるのだ。パウロは、どんなローマの権勢やヘラの哲学の前でも、この福音を恥じることがなかった。すべての信じる者に救いを与える神様の能力であるからこそ、この福音を誇るだけだった。 “神の御心を行って約束されたものを受けるためには,忍耐が 必要なのです。”(ヘブライ10:36) 私たちには忍耐が必要だ。肉体の練習だけでも大変な峠を越えるたびに、違う境地が開かれる。私たちに下さる神様の御恵みは無限であり、もっと大きな恵みがあるからこそ忍耐せよと言われる。神様のみ旨を行った後、約束したものを受け取るために神様の回答に焦点を当ててその方だけを期待するようにと言われる。苦難、疾病、苦労、無念、もどかしい心情、終わりそうもない暗いトンネル、呆れた状況と絶望の前に座り込んでいるなら覚えておいてほしい。夜が過ぎて夜明けが来るよりも明らかに、神様がいらっしゃる。(2018年5月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

信仰の生、困難と苦難は当然の理

  より大きい罪、より大きい御恵み(5) “あなたがたは,光に照らされた後,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してください。”(ヘブライ人への手紙10:32) 神様は福音の光に照らされた後、苦難の大きな戦いを耐えたことを考えるように勧められた。逃れられない罪、ユダヤ指導者たちとユダヤ人が犯した、知っていながら犯した大罪よりも恐ろしい罪を福音の黄金時代に生きる我々が今犯すことができる。私たちの古い自分に属するものを依然として残し、普遍妥当に福音を道具にして福音を知る自分として武装しているのではないか。依然として最後の余地を絶たなかった私たちの態度が、もしかしたらもっと大きな罪人であるかもしれないという事実が私たちを恐ろしくさせる。 しかし、私がより大きな罪人という事実を知り、経験すればするほど、神様の御恵みが最も大きくて永遠な福音であることを分かるようになる。私たちには臨まれない御恵を施してくださって、さらにより大きい罪人であることを知る者に与えられる神様の祝福である。これからは、もっと大きな罪人が、ただ信仰だけで見つめて捕らえるべきより大きな御恵み!我々のすべての限界と不可能を超える十字架と復活の御恵みがどれほど大きいかはより大きな罪人でなければ分からない。 より大きい罪人に与えられた十字架と復活の御恵 そして、正しく福音に従い、信頼に行ったからこそ、受ける困難と苦難は当然のことだ。福音の道である真理の狭い道を歩もうとすれば、必ず苦難の戦いが起こるしかない。 まずは自分自身との戦いだ。昔の情、昔の自分の古い習慣が揺れ続けて誘惑する。自分だけを追求していた普通な人生が、今は主の信仰の旅路に従って歩こうとする時に抵抗を受けるようになる。魚一匹さえも波に逆るとすればあらゆる波に抵抗しなければならないように、世の中は私に対して決して友好的ではないのだ。イエスに従って真理に従う私たちに対して世間は私たちの味方ではない。神様はその光を受けた後、苦難の大きな戦いに耐える私たちに愚かではないと言われる。途方もない福音を受けて知っていながら、福音にそっぽを向いたまま無視して裏切れば、これより大きな罪があるはずがない。これよりもっと恐ろしい人生はどこにあるだろうか。 世の中は私に対して絶対友好的ではない 将来滅びるこの世界、我々の目に華やかで大きくて強く見えるすべてのものの中で、永遠なものは何もない。天下を覆しそうだった英雄たちも、その命を少しも延長することができなくて正確に死んで埋められた。誰もこの地に留まる者はいないし、一瞬も立ち止める時間もない。必ず通り過ぎる。時間はより早く私たちの人生の残り道を急ぐだろう。私たちが去ってきたのは将来滅びる’長滅城’だ。再び戻る道はないし残った道を最後まで進まなければならない。信仰で歩くこの道は、触って感じて感覚する道ではなく、ただ信仰で永遠の天国、永遠の神様の国に向かって進む道であることを記憶しなければならないのだ。 (2018年5月)<継続>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 : 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

アニメ’選ばれた証人’… 復活の最初の証人 マリアの視線から見たイエス

イエス映画プロジェクト製作、250の言語に翻訳計画 マグダラのマリアの目でイエスを見る短編アニメ『選ばれた証人(Chosen Witness)』がオンラインプラットフォームで人気を集めて公開してから3週間で全世界で2万人が視聴したとクリスチャンジャーナルが最近報道した。 選ばれた証人は、イエスの話を9分25秒に要約した短編アニメーションで、38カ国語で制作されて今後250国語に翻訳される予定だとジーザス·フィルム·プロジェクトが明らかにした。 常任プロデューサーのエリザベス·シェンケルは、このアニメを通じてイエスを見る3つの方法を紹介した。 まず、マリア·マグダレーナの目でイエスを見ることになるだろう。 彼女はキリストに従っただけでなく,復活の最初の証人だった。マリアはイエスに会って初めて人生の変化を経験した後、常にイエスのそばに留まった。彼女はキリストの受難の時にもイエスのそばにいた。 第二、実際にこのアニメーションはイエスの物語である。 イエスの全生涯を要約した。9分間イエスの生涯と死と復活を見ることになるだろう。もしイエスの話をしっかり見たければ、『イエス』と『マグダレナ』の映画を見ればいい。 第三、神様がキリスト復活の最初の証人としてマリアを選んだ時に戻ってい見ることが重要だ。当時マリアのような女性は社会から疎外されていた。女性は法廷で証人として認められなかった。それにもかかわらず、神様は歴史上最も重要な事件の最初の証人としてマリアを立てた。 エリザベス·シェンケルは”神様が女性の地位を高め、男性と同等の価値を持った存在にしたのだ。当時としては革命的な見方だった”と、”イエスは疎外された人を通りすぎずに彼らと共にしながら’彼らが私がここにいる理由’とおっしゃった”と説明した。 「イエス·フィルム(Jesus Film)」は1979年、映画<イエス>を製作してアメリカ250個の映画館で上映、1985年には「イエス映画プロジェクト」宣教会が創立された。 2009年現在、‘イエス映画プロジェクト’は1071ヶ国語で<イエス>映画を翻訳、423ヶ国語でオーディオイエスの話を、135ヶ国語で子供のためのイエス物語を制作した。また、映画『マグダレナ』を48ヶ国語に翻訳した。 現在、イエス映画プロジェクト宣教会は30本の短編映画を製作している。この宣教会はこれまで1500あまりの宣教会と同役し、5億人が映画を通じてイエスに従うことに決断する姿を目撃した。 クリスチャン·パースペクティブ イエス様がみずからおっしゃったことだ。“罪人を呼びに来た”(マ9:13) なぜなら、イエス様は罪人に永遠の命を与えに来たからだ。神様にかたどってで創造された人間が神から離れて罪を犯して聖なる神様と共にすることができなくなると、愛の神様は息子であるイエス·キリストをこの地に送り、十字架を通じて人類を罪から救った。それだけでなく、神様と永遠に共にする生命として回復された。この福音を聞いてイエス様の十字架の死と復活に信仰で参詣した人々だけが証人の人生を生きることになる。その最初の証人としてマリアがいたとすれば、今日まで数多くの証人がイエス·キリストの福音を信じて永遠の命に向かって進んできた。 この短いアニメーションを通じて福音が聞こえ、多くの人々がイエス·キリストを信じて証人に立てられるよう祈ろう。 [福音祈祷新聞]