より大罪人に託した恵みの務め

より大きな罪、より大きな恩(7) “わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない. ”(へブル人への手紙10:38) 私たちは後に退いて滅亡するような者ではありません。ただ魂を救うことに至る信仰を持った者だとおっしゃる。背水の陣を敷くという意味である。後に退く余地を考えてはならない。帰る道はない。福音の真理を信じる信仰以外は滅亡しかない。 このような強い心で帰り道を断ち切った人、帰り道のない人、その人はもう迷ったり悩んだりしない。なぜなら、一つの道しかないからだ。数多い挑戦の中で、より大きな罪人に臨んだより大きな恵みを私たちに与え、決してためらわないようにする。 私たちは必ず神の前でその栄光を手にするだろう。 驚くべきことに、パウロは言う。“わたしを 强くしてくださった、わたしたちの主キリスト · イエスに感謝しています。この 方が,わたしを 忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。”(テモテへの第一の手紙1:12) これは罪人の中の怪獣だった私にその恩恵がどれほど大きいかを知ってもらうためである。パウロは誹謗者であり暴行者であり、殺人者だった自分を神様が忠誠心をもって受ける資格がない自分に恩としてこの職分を任せてくれたと告白する。一番大きいの罪人であることを知る者に、表現できない恵みの福音の使命を託す。 イザヤ書6章には、ウジヤ 王が 死んだ 年、絶望の中で聖殿の前でうつぶせになったイザヤに、天の栄光の玉座を見せてくれる場面がある。 神様の偉大の前に立つイザヤは”災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも,わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。”と嘆く。その時、神が天使を送り、燃えている炭を持ってきて彼の唇に当てて宣言する。“見よ、これがあなたの 唇に觸れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。”大きい恩みを受けた彼に神様がおっしゃる。”誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。” (イザヤ6:8) ‘この世をこのように愛し、一人っ子を与えてくれて想像もできないこの大きな恩みの十字架の福音を誰が知って、この言葉を持って希望のない者たちに行くのか’と主が尋ねる。絶望した彼を神の恵みで清潔にする。彼は言う。’わたしがここにおります。わたしを遣わしてください’ 福音の前に立って希望のない私を救ったこの大きな恩みの前に立つ者は、主の栄光の呼びかけに答える。 “しかし,わたしが憐れみを受けたのは,キリスト · イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり,わたしがこの方を信じて永遠の 命を得ようとしている人々の手本となるためでした。”(テモテへの第一の手紙1:16) 誰がもっと大きな罪人ですか? 誰が何の望みのないあきれた罪人ですか? この感激に捕らわれた罪人の中の怪獣、福音のために一生を捧げたパウロが監獄で叫ぶ。私は罪人の中の怪獣だ。真実である。すべての人が受けるに値するこの言葉よ。キリストキリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった。これは一人の告白ではない。すべての人類の告白でなければならない。恩みの福音だけが生きて居られる主のもとへ帰れる唯一の道だ。あきれるほどの危機と悲惨な罪の中で我々を呼んだこの福音を宣言し、忍耐と信仰をもって進もう。 (2018年5月)<終わり> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

霊魂の中に植えておいた神様の形象を探す。

“あのね!一緒に遊ぼう。ここに座ってみて。私の横にくっついて。足を伸ばしてみて。足を合わせてみよう。”砂場に座って狭い肩を重ね、手も合わせて、くっ付いて座ったもので遊ぶ準備は終わり。友達の足を順番で触れながら歌を歌い、歌が終わる時にかかった友達が鬼になる。お互い似ているが、それぞれ違う形の足の指を見て笑ったりもする。友達の暖かい体温を通じて、うれしく楽しい気持ちを共有しながら幸せな1日を過ごす。 子供たちは見ただろうか。私のものと友達のものを比較しながら笑ったその足の指と、友達の体温と、明るい笑いの中にあった神様の形相を。魂の中で発見できる神様の形象がどれほど美しくて甘いものであるかを、ぜひ発見してほしい。 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)[福音祈祷新聞] <著作権 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

大罪人がいるだけで適当な罪人はいない。

より大きな罪、より大きな御恩み(6) さらに大きな罪人がいるだけで、大体罪人などいない。ただ大罪人に対するより大きな御恵みがあるだけだ。だからもうその御恵によって行くその道は何も見えなくても行く道であり、自分の計算と自分の手の力で行く道ではない。 “あらゆる 惠みの源である神,すなわち,キリスト イエス を 通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった 神御自身が,しばらくの間苦しんだあなたがたを 完全な者とし, 強め,力づけ, 揺らぐことがないようにしてくださいます。”(べテロ一5:10) 神のより大きな恵みに託された人生なら喜びなさい。滅びることはできないし、失敗することはさらにない。より大きな罪人であることが明らかになればなるほど、より大きな御恵を期待することになるだろう。大きくて完全な神様の御恵みの生命に囲まれているという事実に気が付く。途方もない福音を受けていながら無視したり裏切ったりして神様も天国も審判もないように生きることよりもっと恐ろしい呪いはない。それで、決して普通の人生を生きることができない。自分を信じたり頼ったりしないで、もっと大きな罪人に与える大きな御恵を見つめなければならない。 神様が誹謗と苦痛の中で人の見せ物になり, あるいはこんな状況に置かれている人たちの仲間になれた。喜んで君たちがそのすべての困難を耐え忍ぶのは、より良い永遠があると知っているからだ(ヘブライ10:33~34)。神様は“現在の苦しみは,将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないとわたしは思います。”(ローマ8:18)と言う。想像もできない天の永遠な報いがある。神様は確信を捨てるなと言われる。(ヒ10:35)。 福音の中にある最大の罪人である私が発見したより大きな御恵、この恵みの福音を決して恥ずかしがってはならない。福音は人々と諸国を生かす。私は希望なく無能であり絶望そのものである。しかし私を呼んだその御恵の福音が信頼の道に立たせ、不可能なこの道を行くようにする。失敗した話のようでつまらない話のようだが、人生を覆して本当の変化を与える福音がまさに生命になった十字架福音であるのだ。パウロは、どんなローマの権勢やヘラの哲学の前でも、この福音を恥じることがなかった。すべての信じる者に救いを与える神様の能力であるからこそ、この福音を誇るだけだった。 “神の御心を行って約束されたものを受けるためには,忍耐が 必要なのです。”(ヘブライ10:36) 私たちには忍耐が必要だ。肉体の練習だけでも大変な峠を越えるたびに、違う境地が開かれる。私たちに下さる神様の御恵みは無限であり、もっと大きな恵みがあるからこそ忍耐せよと言われる。神様のみ旨を行った後、約束したものを受け取るために神様の回答に焦点を当ててその方だけを期待するようにと言われる。苦難、疾病、苦労、無念、もどかしい心情、終わりそうもない暗いトンネル、呆れた状況と絶望の前に座り込んでいるなら覚えておいてほしい。夜が過ぎて夜明けが来るよりも明らかに、神様がいらっしゃる。(2018年5月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

信仰の生、困難と苦難は当然の理

  より大きい罪、より大きい御恵み(5) “あなたがたは,光に照らされた後,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してください。”(ヘブライ人への手紙10:32) 神様は福音の光に照らされた後、苦難の大きな戦いを耐えたことを考えるように勧められた。逃れられない罪、ユダヤ指導者たちとユダヤ人が犯した、知っていながら犯した大罪よりも恐ろしい罪を福音の黄金時代に生きる我々が今犯すことができる。私たちの古い自分に属するものを依然として残し、普遍妥当に福音を道具にして福音を知る自分として武装しているのではないか。依然として最後の余地を絶たなかった私たちの態度が、もしかしたらもっと大きな罪人であるかもしれないという事実が私たちを恐ろしくさせる。 しかし、私がより大きな罪人という事実を知り、経験すればするほど、神様の御恵みが最も大きくて永遠な福音であることを分かるようになる。私たちには臨まれない御恵を施してくださって、さらにより大きい罪人であることを知る者に与えられる神様の祝福である。これからは、もっと大きな罪人が、ただ信仰だけで見つめて捕らえるべきより大きな御恵み!我々のすべての限界と不可能を超える十字架と復活の御恵みがどれほど大きいかはより大きな罪人でなければ分からない。 より大きい罪人に与えられた十字架と復活の御恵 そして、正しく福音に従い、信頼に行ったからこそ、受ける困難と苦難は当然のことだ。福音の道である真理の狭い道を歩もうとすれば、必ず苦難の戦いが起こるしかない。 まずは自分自身との戦いだ。昔の情、昔の自分の古い習慣が揺れ続けて誘惑する。自分だけを追求していた普通な人生が、今は主の信仰の旅路に従って歩こうとする時に抵抗を受けるようになる。魚一匹さえも波に逆るとすればあらゆる波に抵抗しなければならないように、世の中は私に対して決して友好的ではないのだ。イエスに従って真理に従う私たちに対して世間は私たちの味方ではない。神様はその光を受けた後、苦難の大きな戦いに耐える私たちに愚かではないと言われる。途方もない福音を受けて知っていながら、福音にそっぽを向いたまま無視して裏切れば、これより大きな罪があるはずがない。これよりもっと恐ろしい人生はどこにあるだろうか。 世の中は私に対して絶対友好的ではない 将来滅びるこの世界、我々の目に華やかで大きくて強く見えるすべてのものの中で、永遠なものは何もない。天下を覆しそうだった英雄たちも、その命を少しも延長することができなくて正確に死んで埋められた。誰もこの地に留まる者はいないし、一瞬も立ち止める時間もない。必ず通り過ぎる。時間はより早く私たちの人生の残り道を急ぐだろう。私たちが去ってきたのは将来滅びる’長滅城’だ。再び戻る道はないし残った道を最後まで進まなければならない。信仰で歩くこの道は、触って感じて感覚する道ではなく、ただ信仰で永遠の天国、永遠の神様の国に向かって進む道であることを記憶しなければならないのだ。 (2018年5月)<継続>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 : 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]信頼されないリーダーシップは崩壊する

“もし私に従う人々が私の人格を疑ったら、私がどんな力量を持ったかはもう重要ではない。” 一つの材料が欠けると料理全体が駄目になることがある。 あるものは本当になくてはならない場合がある。他人を導く時、信頼されていなければそれは不可能だ。信頼こそリーダーシップの核心である。他人を導く役として呼ばれたとしたら、それはあなたへの信頼をきちんと管理せよと呼ばれたのと同じだ。学生は先生を信じたがっている。もし夫婦ならお互いに信頼することを願う。聖徒は担任牧師を信頼しなければならず、従業員は彼らの管理者を信じたがる。 信頼を失われた時、従う者は消える。 私もリーダーとして一緒に働く人々が私の力量を信頼してほしい。彼らが私の判断力を信じることを願い、またやってくる挑戦と機会をよく予測して私たちの組織を成功的に導く革新的な力量を持ったリーダーとして私を信頼してほしいのだ。私は妻と子供たちからもそのような信頼を受けたい。そして私はこの文を読むあなたも同じ考えだと思う。 しかし、このようなリーダーシップの力量は人格に対する信頼に亀裂が生じた瞬間、一瞬にして完全に崩れる恐れがある。もし私についてくる人たちが私の人格について疑うようになったら、私がどんな力量を持っているかはもう重要ではなくなる。 ではどうすれば信頼を築き、また強化することができるのか。 4つの実質的な方法がある。 1。真実を言え いつもそうしなければならない。キリスト人のリーダーシップなら、真実を語るのは当然だと思うかもしれない。しかし、人間なら誰でも例外なく、どんなに簡単に、見えないように、徐々に、偽りの沼に陥ることができるのか、またあらゆる方法を使ってでも真実を隠そうとするのかについて私たちは知っている。 当然、誰かの目を真っ直ぐに見つめながら嘘をついたりはしない。(これは霊的に非常に恐ろしい状況かもしれない)しかし、半分だけ真実を話しながら、ある事実について誤解の余地を残しておくのはどうか。もし一緒に仕事をする人があなたのことをこのように話すとしたら?”あの人の言うことは10%くらい信じればいい。あなたも知ってるでしょう?あの人がどんなに大げさなんだろうか。” 家、職場、教会のどこにいようとも、あなたが導く人達は、いつもあなたが真実を語る人だと信じられなければならない。聖書全体にわたって現れた神様は、徹底的に信じられる存在である。神様はいつも真実だけを言うので、我々はその方を信じることができる。他の人があなたに対しても同じことが言えるのか? 2。‘ごめんなさい’と言え あなたがリーダーなら‘ごめんなさい’という言葉に慣れなければならない。あなたはこの話を頻繁にするしかない。なぜなら、あなたは人々を失望させるに違いないからだ。あなたが判断ミスをすることもありうる。プランAが正しいと思ったのに間違えることがある。そして、その結果、人々を失望させて怒らせることもある。これとは異なるが、あなたが申し訳ないと言わなければならないもう一つの場合がある。あなたの判断は正しいけどそれを実行に移すために他人を苦しめなければならず、時には彼らのトラウマまで刺激しなければならない場合だ。 必ず大きい事で誰かを解雇したり、降格させるのではない。同僚に、または家族に、または教会の者に罪を犯したのなら、それは謝るべきだ。自分を弁護したり、正当化したい衝動に打ち勝たなければならない。あなたを批判する人たちが正しいとき、怒りをぶちまけたい衝動にかられてはならない。 もちろん、あるリーダーにとって“ごめんなさい”という言葉が一番辛い言葉だということを知っている。そんなこと自体を言わないリーダーに会ったことがあるでしょう。もしあなたがそのようなリーダーなら、警戒心を持たなければならない。その言葉を素早く、そして、謙遜に話す方法を学びなさい。そうする時、長期的にリーダーとしてあなたの精神に役立つだろう。 3。失敗を忘れずに成功を分けなさい。 もし何かが上手くいったら、みんな自分が上手くできたからだと言って、また何かが間違えた時は絶対に責任を負わないリーダーを見たことがあるか? なぜ売り上げが伸びたのか?もちろんリーダーのせいだ。なぜ売り上げが減ったのか?それは絶対にリーダーのせいではない。このようなリーダーは確かにマーケティング部署で見かけられる。私はこのタイプのリーダーは世間でだけ会えると言えればいいと思う。しかしそうではない。このような世間的なナルシシズムは、あまりにも簡単にキリスト教のリーダーとキリスト教団体を汚す。 上手く導くことは非難を避けないことを意味する。実際、あなたが重要なリーダーとしての役割を果たしているとすれば、たとえあなたの決定によって生じたことでないとしても、あなたの責任の下で問題が生じたとすれば、その結果に対してリーダーとしての責任を負わなければならない。リーダーがそうするとき、信頼が蓄積される。忠誠心は深まる。しかし、リーダーが責任を回避し、部下に後ろ指を指さす時、どれだけ早く社員が他の会社に履歴書を出すのかを見ることになるだろう。 この原則は家や教会でも同じだ。誰かを導く時,私たちは他人の代りに非難されるかもしれない。それは家でも同じだ。 4.責任感と独占欲の違いを学べ これは微妙だが、非常に危険な違いだ。それを正しく理解できないと他人があなたを信頼するのに大きな障害となりかねない。 導くということはある目標、戦略、そして人などに関してあなたが一種の無限の責任を負うという意味だ。それはしばしば一番先に出勤して一番遅く帰宅することかもしれない。それは、些細なことで小言を言わず、その代わりに全体の絵を理解して見つめる視線を育てることを意味することもある。リーダーは引き受けた責任について決してこのようなやり方でのんきなことを言うのはできない。”そんなことは気にしない”なぜなら、リーダーは責任を持つ立場だからだ。しかし、賢明な責任感と独占欲を混同してはならない。 例えば’私たち’と言うべき状況でも’私’という主語を使って話すこともできる。 あなたが一緒に働く人々、特にあなたの下にいる人々は’あなたの人またはあなたのチーム’ではない。(彼らが神様を信じる人かどうかに関係なく)クリスチャンの見方で彼らを神の形をした存在とみるべきだ。そして、私たちの究極の目標は、私たちが持つ権威と影響力を極大化して結局、彼らが神様の治めに屈服する時に享受する喜びを知り、その喜びをさらに充満させることだ。 この違いを理解することで、あなたは自己防衛のリーダーになることができて、そして小さなことには反応しないことができる。批判を受ける時、独占欲が強いリーダーほど自己防衛に陥り、相手を攻撃するのが常だ。誰かが異なった意見を出す場合に独占欲が強いリーダーは、それを個人的な攻撃として受け止める。チーム員が他の所に去った時、独占欲が強いリーダーはそれを裏切りだと考える。自己中心的独占欲が強いリーダーより、リーダーへの信頼をより容易に壊すものもないのだ。 手段としての信頼 信頼は本当に効果的なリーダーシップの通話手段(currency)である。それがなければ他人を導くことはできない。 信頼が組織内の新しいリーダーに付与されることもあるが、それはほんの少しの間だけだ。究極的にはリーダーなら誰でも自分だけの信頼を構築しなければならない。信頼を築くには数年がかかるけど崩れるのはあっという間だ。 リーダーとして誰でもミスすることがある。あなたの限界と弱点をいつも認識していなければならない。そして、誰もがリーダーとして生きていれば、人々の信頼を失いかねない。しかし、良いニュースがある。我々の救世主は不完全なリーダーを通じて働くというのだ。我々の救世主に完全な者はいない。我々は倒れても救世主は決して倒れない。それは本当にいい知らせだ。[福音祈祷新聞] “信頼は本当に効果的なリーダーシップの通話手段(currency)だ。それなしには他人を導くことができない” Matthew J. Hall | www.tgckorea.org このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、協約によって本紙に掲載されています。 <著作権者  ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞>問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]十字架で恐怖と直面する

“イエスは、目の前に置かれた死に真正面から迎えて十字架に耐えていらっしゃった。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。” “ドロシー万歳! 邪悪な魔女が死んだ!”ドロシーはおぞましい魔女に水バケツをかけて辛うじて退けた。魔女はゆっくりと溶け出した。6才の幼い心でこの場面を見たら心臓が張り裂けそうになってドキドキしてた。たまたまあったバケツのおかげで災いは免れたが、話はまだ終わっていない。魔女の棒を手に入れた後、ドロシーは家に帰る方法を探すためにオズ魔法使いの宮廷に入った。魔法使いの巨大な頭が火炎、煙の中で叫びながら迎えた。妹とわたしはあわてて枕に顔をうずめた。怖かったけどオズの栄光が我々の興味を引いた。 生まれてからこれほどの衝撃的な出来事を経験したことがなかった。ドロシーがオズの魔法使いを追い出すほどに大きなバケツは世界のどこにもなかっただろう。だけど希望が消えたように見えたとき,ドロシーの小犬,トトはカーテンを引っ張った。ドアが開くと白髪の男が立っていた。 “カーテンの後ろにいる男のことを気にするな”と偉大な魔法使いオズは言った。しかし、なんと、その人は偉大な魔法使いオズではなく、マイクを持った年老いた男に過ぎなかった。詐称劇は終わり,ドロシーの赤いルビー色の靴が彼女をすぐに帰宅させるだろう。 人の心は恐怖に捕らわれやすい。多くの人にとって,この程度の監禁は長い間外傷を残す。ミシェル·モンテーニュの言葉によると、”私の人生は恐ろしい不幸に満ちていたけど恐怖に襲われることはほとんどなかった。” 恐怖は、私たちが見るすべてのものを占領するほどに精神と情緒を作動させるものをを支配する。 聖書で‘恐れるな’という訓戒にもかかわらず、イエス様がおっしゃった“安心しなさい。。。恐れることはない。”(マタイ14:27)や“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(ヨハネ第一4:18)という言葉にもかかわらず、恐怖は私たちを締め付けるのに非常に簡単である。恐れるなという聖書の言葉はシェイクスピアの有名な詩’もう恐れないで’のようによく私たちの耳に響く。 きらめく稲妻をもう恐れないでください。 すべての恐ろしい雷も恐れないでください。 中傷謀略の非難を恐れないで。 君は喜びも悲しみも終えた。 すべての若い恋人たち、恋人たちは誰でも 君に任せに土に帰りなさい。 この詩はタイトルが恐怖から抜け出す道を暗示するため注目できる。しかし、シェイクスピアがある希望を心に描いたら、それは今生ではなかったはずだ。詩の最後の一節のように彼はあなたを墓に連れて行くのである。 しかし、新約聖書は死に対する違う概念を提案する。例えば、イエス様は“一粒の麥は地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが、死ねば、多くの實を 結ぶ。”(ヨハネ12:24)と言った。死は終わりではない。むしろ人生の始まりであり、恐怖が力を失う通路である。どんな姿であれ恐ろしさはこの詩の最後の一節で私たちを迎えない。 一例を挙げると、1505年7月のある日,マーチン·ルターは馬に乗って家から学校に行く途中で雷に遭った。速い速度で動いていた雲は彼の旅行の最初には優しい雨を降らせたが、雨脚は激しくなった。雷が耳をつんざくような音とともにルター周辺の地面に打ち下ろす前に空がぴかっと光った。あまりにも危険なほど近寄りすぎて,彼は恐怖のあまり地面に落ちた。自然の怒りにルターは叫んだ。“助けてください、聖母アン! 修道僧になります。” 500年が経った今、ルターが経験した恐怖が彼の信念の旅を始めたことに気づく。この例のように、私たちは恐怖の影響で世の中に追い込まれている数多くの人々を見ることができる。そうした経験は我々の実在にとって転換点となるほど重要かもしれないが、よりもっと大きな最後の決戦をわずかに反映するだけだ。詩人ロザンナ·エレノア·レプロホーン(Rosanna Eleanor Leprohon)は‘ゲッセマネでイエス’という詩でこのように書いた。 疲れきった弟子たちがみんな眠っている間、 一人深い苦痛の中にいた 一緒に祈る人ももいないし、 一緒に泣いてくれる人もなく その前に置かれた高く上げるべき、 死苦の十字架 幾多の罪人たちの魂を得るために 死にかけるゲッセマネの園! 神様だけの経験 苦しくて悲しむ人に 大切な証が残され 傷ついた心がもっと強くなり、 罪におわれて絶望に陥って死んだ イエスは、目の前に置かれてある死を正面から迎え、十字架を耐え抜いた。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。永遠な過去から父と完全な交際をしていたその方は見捨てられた。神の怒りは絶えず怒りにあふれ、神様との関係は神聖さの恐怖によって隠された。その罪の重みの下でイエスは叫んだ。“エリ, エリ, レマ, サバクタニ”これは,“わが 神,わが 神,なぜわたしをお見捨てになったのですか ”という 意味である.(マ27:46)。 私たちは神の裁きを受けるのが当然だ。我々は愛の神から断絶された。しかし神の救いの恵みのおかげで、その呪いを私たちのために耐えられた。キリストは我々の闇の中に投げ込まれた。そして死から復活されて神様の右に腰を下ろされた。今イエス·キリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。また父に捨てられることを恐れる必要はないので、何も恐れる必要はない。 [福音祈祷新聞] “イエスキリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。” クリス·キャスタールもChris Castaldo|米国イリノイ州ネイパービルにあるNew Covenant Church先任牧師。代表著書’Justified in Christ’ このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 […]

創造の理由は神様の溢れ出す喜びのためです。

人々は人生の中で多様な喜びを享受します。温かい人間関係において喜びを感じたり、逆境と困難を乗り越えて行く中に喜びを感じたりします。また、夢見ていたことを成し遂げる時にも喜びます。 このように喜びには、さまざまな理由がありますが、一つの共通点があります。それは嬉しいことが起きたら、その嬉しい知らせを他の人に話したくなるということです。このように喜びは溢れ出す属性があります。 そして、喜びの理由の中で最も根本的な理由があるなら、それは存在的喜びでしょう。存在的喜びとは、ある対象が何か優れたことをしたり、功績を挙げなくても、存在すること自体が喜びを与えることを意味します。 例えば結婚して10年以上子供を待っていた夫婦に、ようやく第一子が生まれたとすれば、この子の存在が親に与える喜びがあります。まさに存在的な喜びです。 このように父なる神、御子、聖霊の間には、お互いの存在に向かって無限の喜びがあります。このような三位神様の喜びはお互いに完全な満足を与え、永遠に幸せな愛の交際でした。 そして、神様の中にあるこの無限の喜びは、そのあふれ出る属性に従って、三位の神の中に留まらず、外に爆発するように噴出してきました。このような神様の喜びの表れが創造事件なのです。 神様は御自分の完全な愛と喜びを分かち合う対象を永遠の前から夢見ました。そして、最初の人のアダムを御自分をかたどって作ることと計画されて、彼から始まったすべての生命を自分の息子たちにすることに決めました。 そして、神様は、その御子であるイエス·キリストの中で、この計画を創世前にすでに完成されました。 イエス ·キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって與えてくださった輝かしい惠みをわたしたちがたたえるためです。(エペソ人への手紙1:5-6)[GNPNEWS] 資料提供:ティーアンドアールミッションコミュニティ

胎兒であったわたしを

子供たちが梯子を渡って行く。両手でしがみついたり、足を広げて這ったり、しゃがんで下を見下ろして! 緑、赤、青、縞模様、花柄、まだら模様まで! 子どもたちが着ている服のように表情も動きも多彩で躍動的だ。このように生き生きとして無邪気な子供たちの生命は、一体どこから来たのだろうか。この地に住む人々は肉体の母親の胎は分かるけど魂はいったいどこから来たのかその起源は分からない。ダビデは詩編で”胎兒であったわたしをあなたの 目は 見ておられた、何もない闇の真ん中で神様は私を知り、私を作られた”と告白している。それゆえ生命の創造主は神様であり、この小さな子供たちにも神様の栄光が表れるのはその方が愛と生命に満ちているからだ。この生命を堕胎することなく愛すべきではないか! 秘められたところでわたしは 造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎兒であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの 日々はあなたの書にすべて記されている。まだその 一日も 造られないうちから。(詩編139:15~16)[福音祈祷新聞] <著作権者 : 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。> 情報提供及び問い合わせ : gnpnews@gnmedia.org

信仰の根拠は私たちの可能性ではなく神様にある。

福音であるイエス·キリスト(3) 問題をあまり近くから見ると,ほかのことが見えない。しかし,問題から少し離れてから見ると,見るべきものが見えてくる。 いざという時になると何も考えられず絶望に打ちのめされる。行き詰ってるように感じられ、問題や絶望が大きく見えると神様は極めて小さく見える。 しかし、問題から少し離れてみると、偉大な神様が見えることになる。 恐れずに信じさえせよ。 信仰で主の御前で応答を受けて従順したけど絶望が訪れたその時、主は恐れずに信じろと言われる。′それでは何を信じますか? 誰を信じればいいですか?′と、このような質問をする私たちに、主は死者を生かして、ないものをあるかのように呼び出す主を記憶して信じろと言われる。私たちの目の前で広げられる死は終わりのように見える。しかし、神様に死は終わりではない。主は復活された。福音の中心にはこの十字架の死と復活がある。十字架は私たちの凄絶な絶望を語る。永遠に審判を受け終わりにしなければならない私の昔の人の死だ。私はイエスと共に死んだ。 しかし、これが終わりではない。主は死に勝って復活された。そして、主は私としては不可能であり、できないことを瞬間ごとに確認させる。 罪人である私たちの本性は神様なしで自分が主人になって生きることに慣れている. その時、主は十字架をまっすぐに見ろと言われる。主と私が一緒に死んだ十字架を見たら私たちとしてはできないけどイマヌエルで居られる神様が成し遂げられるのを経験することになる。 會堂長ヤイロと共に旅に出た主は、始めだけを共にして、後は自分でやれとおっしゃる方ではない。 主が共に進み出た道は、始まりが主であれば終わりも主である。 だから、主が終わりでないと言うなら、我々が終わりだと結論を下してはならない。 主が終わりといわれれば終わりだ。 死の絶望が訪れても怖がらずに主を信じろと言われる。 私たちはこの時、死者を生かし、ないものをあるかのように創造する主を信じる信仰が必要だ。この信仰は、恐れずに信じろという御言葉の答えである。 神様はアブラハムの信仰について彼が彼は 希望するすべもなかったときに, なおも 望みを 抱いて, 信じたと述べている(ロ―マ人への手紙4:18)。子孫を与えるという約束をされたけど、アブラハムが90才で、サラは月のものがとうになくなっていた。アブラハムは自分が子供を生むことができないことを確認しても,信仰が薄れなかったと言われる。しかし、アブラハムの信仰は揺れた。ただ神様が約束を成就するまで支えてくれただけだ。 したがって、信仰の根拠は我々の可能性にあるのではなく、呼ばれた神様にある。このため、私たちの信仰は揺らぐ必要が全くない。私が私になったのが神様の恵みのためである。私を創造された方も、お呼びになった方も神様である。私の走れる道を全うするように主の恵みでその道を行くようにしてくださるのだ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞]

神の国は乞食のものである。

神の国は乞食のものだ。 それなら本当に”貧乏な者””πωωχὸ”(プトコイ)は誰だろうか? (1)物質的に貧しい者たちだ. ここで、心霊が貧しい人は、実際に物質的にも貧しい人々を意味する。 この事実が重要だ。私はずいぶん前に医師たちの集まりであるヌガ会の招待を受けて箴言とイエス様の御言葉を持って「ラクダが針穴を通ることは、金持ちが神の国に入ることより簡単だ」(マルコ10:25)という聖書の教えを慎重に交わしたことがあった。 そして、実際に神の国に有利に使うよう、所有権放棄に対して強くアピールした。 その時、講義を聞いた多くの医師の中で、ある医師が私のところに来て、こう言った。“教授, 恥ずかしいですが, 私は信仰がないので, 現在その御言葉にに従うことは難しいです。” そんな正直な告白を聞いたことがあった。実は私たち共同体は無所有で生きているが、文を書いている私も、例外ではないという気がする。 金持ちではないが、それでも金持ちだという気がする。 家があるわけでもない、個人の車があるわけでもないが、執筆している研究室に1冊に十万ウォンを超える貴重な本も多く、貴重な資料も多い。恥ずかしいが、神様の御惠のおかげで学んだ特別な知識もある。急いで研究して御霊によって解けさせて皆に分けなければならないと思うけど、心ばかりが忙しいだけだ。ルカによる福音書と並行する言葉に耳を傾ける必要がある。 “あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の國はあなたがたのものである”(6:20) “心の乏しい人”ではない(マタイ5:3) ‘貧しい者’と言う。 “狐も穴があり、空中の鳥も住処があっても人の子は頭の置き場がない”といわれた主のことを考える時間になれば良いだろう(マタイ8:20) (2)所有権を破棄した者たちだ。 貧しい人たちは、実はあきらめる所有もない。彼らには力がなく、世間に頼る人などいない。 しかし、何でも手にしている者は、所有権が放棄された者でなければならない。所有に執着する者であってはならない。旧約聖書が書かれたヘブライ語には「所有」という単語が存在しない。驚くべき教訓だ。世の中の物に執着しているわれわれの世俗化した心に刻むべき教訓だ。 “なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 (テモテへの手紙一6:7-8) ダビデの所有についての告白を聞いてみよう。 “主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。。”(詩編119:57) 実に驚くべき告白だ。 さらに、霊的に神様のお助けなしには、何の善い事を行うことはできず、自ら神様に要求される事を行う能力がないという事実を心から認める者たちである。神だけを全面的に依存する者たち、天国はこのような者たちのものであり、傲慢な者たちは天国から除外されると聖書では言っている。 (3)苦難を一杯受けた存在だ。 物質と心の貧困、苦難は、実に不可分の深い関係である。貧しい人々の心には頼るところは神様に対する自分たちの信仰しかないので、貧しい人々は必然的に神様だけに頼るしかない。そのため、彼らは実際、神様の特別な関心の対象だった。貧しさと苦難と兼備はヘブライ語で深い相関関係にある。次のヘブライ語は同じ語源を持つ単語である: “貧乏”( עָנִ י,  アニ)、”苦難”( עִ נוּי,  イヌイ)、 兼備、謙遜( עָנָו,  アナブ) 旧約の詩篇9:19、イザヤ41:17、61:1(参照、ヤコブ2:5πωωχὸ)節は貧しい者は苦難を受ける者である。苦難は人を謙遜にしていく。謙遜は自然にできるものではない。詩篇の祈りを読んでみると、世の中で捨てられた彼らの祈りはすさまじい。どれほど苦難がひどかったか、“エリ·エリラマ·アザブタニ” “わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 (詩22:3、7)自分を呪うほど、一杯蔑視と苦難を受けた(ヨブ3、エレミヤ20)。こんな者たちの祈りを神様は聞く(詩編22:25) 詩篇9:19乏しい人(所有の無い者)は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。 。 イザヤ41:17 苦しむ人(所有の無い者)、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。 イザヤ61:1 主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 詩編22:25 主は貧しい人の苦しみ(苦難)を決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 ヤコブ2:5 神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 ここにあるヘブライ語の “אֶ בְ יוֹן” (エブヨン)、  “עֲנָוִ […]

福音の能力

十字架にかけられた人生と聖霊充満した人生について研究して望むことだけでは不十分だ。何よりもこのような人生を渇望し、神様に求めなければならない。 このような人生のために、イエス·キリストの前で他のことを完全にあきらめなければならない。 重要だと思うすべてのことに背を向け、直ちにその方のもとへ駆けつけるほど、このような人生を望まなければならない。 キリストが私の人生の最高統治者であり、主にならなければならない。十字架の前に完全に跪かなければならない。自分の罪に対して死ななければならないのみならず義に対しても死ななければならない。自分が以前に誇ったことすべてについて死ななければならない。この人生の魅力を経験した人たちは、諦めたことについて文句を言わない。 なぜなら、失ったものよりはるかに多くのものを得て喜ぶようになるからだ。 [福音祈祷新聞] 御靈 (A.W.トーザー)より抜粋