英語の単語であるプロディガル(prodigal)は ‛無謀なほどに浪費する、放蕩な’という意味である。ルカの福音書15章のドラ息子につけられたこの形容詞を著者はお父さんである神様を表現する単語として使用した。本を読んでいる終始、失くされた二人の息子に惜しまなく蕩尽される父の愛に感激して心が溶けてしまう時間だった。
父の財産を娼婦らと共に飲み込んでしまった次男のために肥えた子牛を屠って盛大な宴会を施された神様は、沢山聞かれて、よく会ってきたようだ。いつも門の前で待ってて下さって、悲惨な姿で帰ってきた私を先に見つけられて走って来られたその父でなかったら今の私はいなかったはずだから。
しかし、問題は長男である。毎日、家出をした次男を待っている父を見ながらも自分の仕事ばかりしていた長男は、帰ってきた弟に向かった父の憐れみと愛に対して結局怒りを発してしまった。失くされた息子は次男だけではなかった。一度も父と心を合したことのない長男も父の方から見たら再び返してもらわなければならない失くされた息子であるのだった。
次男は自分が父を裏切った罪人であることを解るしかなかった。ところが長男は自分の義と熱心によって、自分が父からどんなに離れているのかに自覚することができなかった。もしかたら、彼の方がもっと悲惨な状況に落ちているのかも知らない。長男も次男と同じく父を裏切って去って行った。ただ、方法が違っただけなのだ。‛私が父に不従順なことがなかったから、父も私の人生に私が望む通りにしてくださるべきです。’という無言の取引を自らしていたのである。
父を愛したこともなく、その権威を認めることもしないまま、自分の望みを叶うために従順という形で父を利用するだけだった。そして、その願うことに反することが起きたら父に怒って、恨む。利己的な目標を自分にさえも隠していただけで、父を愛して、喜んで、仕えたことのない長男に私を発見するしかなかった。大きいショックだった。
今まで私が長男であるのは、失われた弟を一生懸命に探さなかったからだと思ってた。弟に向かった父の気持ちにもっと共感できなかったことは残念だけど、それでも弟よりはましな兄の方だと思っていた。だが、イエス様はこの話を徴税人や罪人だけではなくて、周りにいたパリサイ人にも話された。すでに帰ってきて、涙で悔い改めていた罪人だけではなく、律法をすべて守っていて、熱心に宗教生活をしているパリサイ人に。過激な献身と焼かれるために渡すような仕えを通して神様が私を守って下さって、面倒見て下さるしかない正当な権利を得ていると、知らぬ間に己惚れている私に神様は‛失った息子’と話された。
今日、次男のように失われた者が父の家に帰りにくい理由は、私のような兄たちが教会にいっぱいに居るからだと言われて腰を抜かした。父の気持ちを解らなくて、弟を探しに出て行かなかっただけではなく、弟が帰ってくる道の妨げとなっていた。父の座に座って高ぶる高慢と判断と批判のだめに。
私は失くした兄であるが、弟に対する愛情と同じ愛で私を待っておられる父がいる。無謀なほどに惜しみなくすべてを注ぎ込まれれて私を探す父がおられる。だから、結局、私たちに下さった真の長男であるイエスキリストは、帰る準備すら出来てない私に先に訪れて下さった。ついに見つけ出された。
イエスの例えは兄に勧めることで終わる。長男が悔い改めて宴会の参加したかどうかはわからない。今はその話をハッピエンディングに仕上げる順番だ。
自分のための熱心から改めて心深く父を愛して、喜んで、その方が施された宴会に信仰で参加するのだ。死んだ人、失くされた人を甦らせて、見つけ出すために惜しまなく長男を渡して下さったその愛に、ただ愛だけで反応したいのである。[福音祈祷新聞]
イキヨン宣教師