まだ働き盛りである32歳の若かれし頃、原因の知れない病に悩まされた。なんの希望も満足もないまま自ら命を絶とうと3度に渡り自殺を図るがそれさえも失敗に終わった。凄絶な絶望の先にイエス様はこつ然と会いに来て下さった。流行の歌を好んでいた者から賛美を捧げる者へと、イエス様をそしる者からイエス様を伝える者として生きるようになったキム・グィイ勧事(64.チョンジュサンドル教会)と出会った。
-最近はどのように過ごされていますか?
“この前の夏、3週間に渡りアフリカへ短期宣教に行ってきました。そして青少年のための福音キャンプに仕えながら大きな恵みを味わいました。年老いた私が若い人たちの間に挟まって迷惑をかけるのではないかと心配したのですが、そのような私に配慮して下さり、喜んで仕えることが出来ました。”
-いろんな活動をされているのですね。
“ところがもっぱら自由な訳ではありませんでした。神様の中で夫に従順しようと決めてはいたものの、夫が出張に行っている間になんの相談もせず自分だけが青少年キャンプ行きを決め申し込みをしました。ところが出張から帰ってきた夫に福音キャンプに参加する事を話すと自分も行きたいと言ったのでとても驚きました。私がなすこと全て反対していた人が、まさか共に行きたいといったからです。
イエス様を信じた後から、わたしのバリバリの信仰生活のゆえに夫とは常に関係が良くありませんでした。誰でも行って仕えることが出来るキャンプでしたが申し込みの期間が決められていたので夫が参加することは出来ませんでした。残念ではありましたがとても感謝でした。今年の後半は、他の訓練を受けずに夫に仕えながら、いつも教会でしてきた路傍伝道をしようと決めました。そしてキリスト人として当然の務めである祈りに、更に専念しようと思っています。”
-バリバリの信仰生活とはどんな意味ですか?
“私は主に出会って以降、本当に主だけで十分である人になりました。習慣的にいつもしていた法事を辞めるなど、主の御旨どおりに生きようと努力しました。また書斎にいっぱいになっていた雑誌や、部屋の隅にいっぱい重なっていた人形達も全て捨てました。あんなに好んで歌っていた流行の歌もいつの間にか聴くことも嫌になっていました。神様を見上げる事が出来ないようにし、愛する事が出来ないようする歌詞がとても幼稚に聞こえました。
ですから車に乗ると、夫が聞いていた世の歌のカセットテープを隠し、家の中では見ていたチャンネルを変えて常に夫とは言い争っていました。些細な領域については知恵あるように整理していけば良かったのですが、とても我慢できませんでした。人々はわたしについて、イエス様を信じる信じ方をやけになっているといいました。
神様と出会い世の中の関心を全て立ち切る
-どのようにしてイエス様を信じるようになったのか気になります。
“私も不思議に思っています。主がどうして私のような者に出会って下さったのか…。神様に敵対し、伝道者達を指差し誹謗していましたから。偶像崇拝が蔓延している家に生まれ、イエスを信じる人達の言うことに全く聞く耳を持ちませんでした。本当に聞こえて来なかったのです。イエスを信じるという人達は見るのも嫌だと思っていました。
しかし病に侵されてから‘イエス’という名前が耳に聞こえ始めました。末の息子を産んだ32歳のころから原因の分からない病に侵されました。出産後、二回の医療事故によって生死をさまよいながらだんだん病院が信じられなくなりました。その時から苦痛のみの患者生活が始まりました。生まれたばかりの子供に一度も母乳をあげる事も出来ず、夫さえ慰めてはくれませんでしたから死を選ぶほかになす術がありませんでした。その時死んでいたら私は永遠の地獄の火の池に落ちていた事でしょう。”
-死の危機から主はどのように救い出して下さったのですか?
“末の息子が3歳になる頃、お粥も薬も飲めずに布団にふさぎ込み患っていた日がありました。突然ある日のような形のものが私のおでこを強打するのを感じました。十字架の形だったということだけは分かりました。その後、突然苦痛が洗われるように去りました。言葉では説明も理解も出来ないことが私に起こったのです。急に教会に行きたいという思いが生じました。”
-奇跡的に主が会いに来て下さったのですね。
“はい。次の日近所のある人からクリスチャンから貰ったといいながらカセットテープをひとつ渡されました。天国と地獄に対する内容が盛り込まれた証しでした。聞いているうちにどんどんその内容が信じられるようになりました。ほかの事は分かりませんが地獄だけは行ってはならないというが分かりました。教会に行きたいけれども行き方も分からず、また夫が教会に行く事を賛成するはずもありません。そして教会に通っている仲のいい後輩がいたのですが、主人がとても可愛がっている子でした。その子からお願いされ私は奇跡的に教会に通う事になったのです。
教会に行く何時間も前から準備を終え、その後輩の子の家に行き‘教会にはいつ行くの?もういく?’と聞いていた事を思い出します。礼拝堂の門を入るやいなや悔改めの祈りが弾けました。‘神様、わたしがやっとここに来ました。’涙、鼻水を全てたらい流し初めての礼拝を捧げました、その時から礼拝という礼拝は全て参加し、教会の登録が終われると伝道をして周りました。”
地獄は行ってはならない所であることを悟り
-イエス様を信じてすぐに伝道を始めましたか?
“はい。私はイエス様を信じてから不信者に対しそのまま見過ごすことが出来ませんでした。普段から親しかったご近所の中に偽信者がいたのですが、その人を呼び出して怒りました。‘あなたは自分だけが天国に行って、私は地獄に行かせるつもりだったの?’と聞きました。すると、どこをどう見たってイエス様を信じる事はなさそうだったので福音を伝えなかったと私に言いました。呆れてものも言えませんでした。そのとき悟りました。人がイエス様を信じるか信じないかは自分にかかっている訳じゃないということです。神様がなさる事ですから私はただ伝えればよいのだと、そしておもいっきりイエス様を伝え宣布しました。主日の朝になると近所の人達は、私のせいでご飯を食べる事もままならず教会に誘われるから隠れたりして大騒ぎになるほどでした。”
-ご近所の方達が隠れるほどだったならば、ご家族にはもっと熱心にされたのではないですか?
“そうです。いちどあるご近所の方に伝道したのですが、その人が急にあなたのご主人はイエスを信じているのか?と聞いたのです。その言葉を聴きハッ!としました。うちの主人がイエス様を信じるようになったらあなたも信じるの?と聞くと、そうすると答えました。そして私は夫を伝道し1年以内にまた来るからと話しました。その頃うちの教会では信じない夫の為に涙を流し祈っている信徒たちがたくさんおりました。それなのに私はたった1年という短い期間で主人を伝道すると言ってしまったのですから正直心配でありました。
その翌日、早天から夕方に至るまで教会でずっと祈りました。言葉では表現できない時間でありました。夫は早天礼拝に行く事が出来ないように私の靴や服を隠しました。それでも行かせない出来ないので目覚まし時計を隠したほどです。やっとのことで教会に行って戻ると子供達にご飯を食べさせ学校に行かせなければならないのに、こんどは家のドアを開けてはくれませんでした。イエスに狂った女だと会社中で噂になり、夫の知人からお願いだから教会に行かないでくれと頼まれたほどでした。ある日、夫から呼ばれイエス様と自分とどちらかを選べと言われました。”
“イエス様も必要だし貴方も必要だから”
-本当に主の知恵が必要な瞬間でしたね?
“はい。いったいなんと言って良いのか分かりませんでした。そのとき‘私にはイエス様も必要だし貴方も必要だから。’と閃いたのです。主が下さった名言中の名言でしたね。予想も出来なかった答えを聞いたものですから主人はあっけにとられていました。おかげさまで離婚の危機を逃れる事が出来ました。夫の靴さえも握り祈るほど涙の日々を過ごし、約束の1年位が経った時のある日、夫が主日の朝に私に声をかけました。教会には何時までに行くのかと。ずっと祈ってはいましたがまさかと思いました。しかしその時間に夫は髪型から服に至るまできちんと正装し教会に来たのです。その日教会はお祭り騒ぎでした。”
-共に信仰生活をしながら心強かったと思います。
“いいえ。その時から私の生活はさらなる十字架でした。信仰もないのに教会がどのようにまわされているのかの過程や行事について敏感ですから、さらに私を締め付けて来ました。しかし早天礼拝によって夫は変わり始めました。当時の私たちは読書室を運営しておりましたが、夫が勤務していた夜間の仕事を私が受け持つことにしました。夫と共に早天礼拝に行くためでありました。信仰は聞く事から始まるといわれたように、夫の信仰もいつの間にか成長し、今では長老になっています。口では言い表せないほどの恵みであります。”
-勧事さんの信仰生活の中でお子さんがたはいかがでしたか?
“後から聞いた話ですが本当はとてもきつかったようです。イエス様を信じるようになってから今に至るまで質素に暮らすのが我が家のモットーとなりました。‘喉を通ってしまえばどうせ全て同じなんだから高級食事は摂らないようにしよう。安い買い物をし着る物も簡単にしよう。’といっていたので不満だったに違いありません。
伝道の為、各種キムチを漬け込みご近所に配った時、とくに末っ子がいつもお手伝いをしていました。大事な息子をなぜこんなにこき使うのかとみんなから言われたりもしていましたが、それでも嫌じゃありませんでした。なぜならその時の私の焦点はただ魂を救う事にのみあったからです。高校を卒業した末の息子がある日私に話があると言いました。不満を言いに来たかと思いきや今まで自分をちゃんと育ててくれて感謝しているといいました。涙がこぼれました。駄々をこねたらみんなの手前見本にならないと思い、いちども温かく抱きしめてあげる事もしてませんでしたので…。”
-ほんとうの伝道者の生き方をして来られましたね。
“恵みです。あの人イエス様を知っているかな?と今でもそのこと意外に関心がありません。伝道すると多くの人から神様を誹謗する声を聞きます。私自身はどのように扱われてもいいのですが、愛する私の主が誹謗を受けることは耐えられません。もう少しマシな人を選ばれ、たくさんの魂を救う事も出来たはずなのに、なぜ私のような者を救って下さったのか分かりません。”
-福音を述べ伝えながら主から与えられた恵みが多いですよね
“もちろんです。去年、教会の周りに大きなマンションが立ちました。私は伝道委員長を任されたので夏には冷たいお茶、冬には温かいお茶を配り毎日人々に会いに行きました。足に炎症が起きたほどです。人騒がせに伝道しすぐにでも人々が集まる勢いでしたが年末の決算によるとたいした実がありませんでした。すっからかんになった思いでした。その時‘主の中にあって無駄な事はない’という御言葉を掴んで祈りながら更に伝道に出かけました。今にでもタスキを掛けチョンジュ市内に飛び出し伝道したいと思うほど魂に対する渇望があります。”
“神様との断絶の方がもっと大きな艱難であり苦難であります。”
多くの人達がこのような伝道をする時代は過ぎたと言いますが、イエス様が私達をいかに愛しておられるのかその方と共にする事が出来る、天国があるという事だけでもお知らせするべきでしょ?そんなある日、夢うつつの中でみすぼらしい私の姿ついて主がいわれました。‘おまえが何もしなくてもおまえは私の娘だ。私はお前を愛している。’主の一言が私の心を打ちました。それからは実がないことによって落胆する事はありません。”
-福音を知ってから特別な信仰の訓練を受けましたか?
“7年ほど前に信頼しているある牧師先生からの勧めで宣教観学校と執り成しの祈りの学校を知りました。初めにその訓練を勧められたときは戸惑いました。私は確かに福音に出会っていましたから他になんの福音があるのかと、そして何の訓練が必要なのかと思いました。それでもその方が神学校の学生だった時に共に祈ったり、食事したりした仲でしたので必要だから私に進めるのだと従順致しました。
6ヶ月間の宣教観学校に参加するため願書を持って尋ねた日、わたしの涙は止まりませんでした。そこはまるでイエス様が待っておられる初代教会のようでした。まさに私の兄弟たちがいる場所であり、私が見上げる家、天の本郷のように感じました。6ヶ月の間本当に浮き浮きする時間でありました。その後、まことに罪を犯すしかない私が死に、もはや今は私はイエスの生命として生きているという十字架の福音に出会いました。これまで私が成したものはなく、本当に主が私を主張され導きだして下さった、恵みの人生であった事がもっと確かになりました。確実に主と出会ったのであれば中途半端に生きる事は出来ません。真理なる主が私達を主張して下さるからであります。”
-最後に祈りの題目を分かち合って下さい。
“まことに天国に希望をおいて生きている私にとってこれ以上何が必要であるでしょうか。一生懸命に信仰によって生きるといいましたが、家の状況が厳しくなり人々から何というあり様だと言われました。それでも私を愛し正しい道へと歩ませる為に、神様が許して下さった御業であると信じますから恐れなどありません。私には神様と断絶される事の方がもっと大きな艱難であり苦難であります。年をとったからと省くことなく共に行こうといってくれる信仰の仲間とともに、主が来られるその道を栄光もって迎えながら生きて行きたいです。