ゲプハルト <ヤコブと天使>
エドゥアール ボン ゲプハルト、1894年、70.5 x 47.5cm、ドレスデン ヌエ マイスターギャラリー所蔵
長子権を奪ったヤコブは、エサウが4百人の兵士と共に迎えに来るとの事を聞いてから寝られなかった。誰が4百人の兵士の前でぐっすり寝られるのだろう。しかし、皮肉なことに、ヤコブは絶体絶命の危機を目の前にしているところでベテルの祝福を確認された。この確信が付くまで彼はヤボク川沿いで一人で神様と凄絶な格闘をしなければならなかった。
エストニア出身のキリスト教の画家であるエドゥアール ボン ゲプハルト(Eduard von Gebhardt)は、一生、似顔絵と聖画だけを描いた。似顔絵を通して人間に対する関心を育ってきた彼は、それをごっそりと聖画に注ぎ込んだ。ゲプハルトが描いた‛ヤコブと天使’は同じ主題をもってほかの画家が描いた作品とは全く違う観点を見せてくれている。天使とヤコブの争いを激しい格闘として描いた画家たちとは違って、ゲプハルトの天使はヤコブをはるかに上回っている存在として表現された。その故に、ヤコブは必死に取り込んだ。寝られなくてやつれた顔のヤコブが、ありったけの力を絞って天使の服を握っている姿は、切迫で切ない心境を深く理解している画家の理解を見せている。この姿は苦難の中で泣き叫んでいる私たちと同じである。“主でなければ駄目です。私に誓ってくださった約束を確認するまで離れません。”と叫んでいるように。
ヤボク川沿いの凄絶な夜は誰にもやってくる。‛私のデスティニー探し’(コセンジュン、2018)の著者はヤボク川沿いでの格闘は‛神様にせがんで得た祝福’ではなくて‛格闘して得られた信仰’だと説明している。約束の成就を妨げる障壁は、目の前に迫ってきている現実ではない、約束を成就しない神様の変心でもない。それは自分も知らないうちに積んできた自分の方からの障壁である。これは徹底的に霊的な問題であって、神様を完全に信頼しないからである。
また、障壁は目の前に迫ってきている現実に肉体的に反応させる。自分に属された人の数を数えながら、絶え間なくエサウの4百人の兵士と比較する。味方が6百だったら安心で、2百だったら不安になる。そしたら、権力者と約束を取ったり、銀行の貸付に頼ったり、接待とつてに心を捕らわれたりする。このようなすべてが障壁を建てる事であり、神様からは不義でもある。しかし、ヤボク川沿いで一人で立って祝福の源である神様に叫んで、完全に信頼できなかった我がの障壁を壊す時が現実と状況を乗り越える平和を得られるのだ。勝負所はエサウに会う前のヤボク川沿いであるのだ。
イサンユン美術評論家