罪を自覚すると生き方が変わる。

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ジョン・ボンヨン (John Bunyan) <傷ついた心の優れ(The Excellency of a Broken Heart)>

この本は聖書の次に多く読まれている‘天路歴程’の著者、ジョン・ボンヨンの生涯最後の作品である。タイトルのように‘心霊、心’に対しての考察を書いている。

この本を読む当時、私は完全な福音にあった完全なる信仰でいきたいとの熱望を持っていた。私の中に起こっている絶望と挫折が‘心’の問題であるとは認めていたが、どのように心まで完全に信仰を持って自分自身を捧げるかを悩んでいた。

神様の御恵みによって、傷ついて嘆いている心霊の本質と慰めを直接体験したジョン・ボンヨンは、詩篇51編を中心にして、何が傷ついた心霊であって、何が嘆く心であるかを聖書を通して明かしいる。

ボンヨンはまず魂が悲しむ前の状態を人が生まれたときのすがた、そのままだという。人間は生まれたとき、霊的、福音的な側面では完全に死んだ状態である。

愚かな者、高慢な存在、頑固で、心堅い城壁であり、神様を恐れない被造物である。神様に対して反対に信じて、罪を愛する横暴な存在であり、神様の国のことを嫌悪する存在である。このような割礼をうけてない心の様態に対して明らかに現した。

幼い子供二人を育てる母として、自然と罪人であることを現す子供たちの言動を見て、ボンヨンが心に対して見つけた結果は感嘆するほど共感した。結局このような心に死刑宣告が必要だという結論に達するしかなかった。‘心が問題である’と言ったけど、み言葉を聞かない心の実存に対してまじめに神様に聞かないまま、口の言葉だけの告白をしてきたことを認めざるを得なかった。

こんな心は、堅い岩を割れることができる棒のように、神様のみ言葉の能力によってわれ始めた。神様のみ言葉は罪人を見つけて選び出す。神様のみ言葉はその罪人の罪を見つけ出して、罪人の全生涯を最後まで明かすのである。神様のみ言葉はその罪人を裸にさせて、神様の面前でその人の目で自分の罪の実状を見させてくれる。

ナタンの説教でずうずうしかった良心に釘刺されたダビデが主に罪を犯したと告白してひれ伏したように、心霊が傷つけられた人は骨が折られたように、以前に行ってきた行動に関して無能になるのである。

罪のために当然受けないといけない神様の怒りを知覚するようになり、以前に楽しんでいた生き方から抜けてしまうのである。それだけではない。神様の御恵みで悲しむ魂のすばらしさはやわらかさである。心を裂いてくださって、神様の霊を注いでくださる。心の鍵が開いて、福音の宝石、恵みの宝石でいっぱいになるのである。

よく砕かれた心にはお祈りの香りが放つ。その心霊の王座に神様がいるので、悲しみの人は神様の栄光を捧げられる。また神様の喜ぶみ子であるキリストを高めるのに適している。その心霊は謙遜で、感謝する心である。

こんな心はどのようにして維持できるのか。ジョン・ボンヨンはこれも具体的に提示している。はじめ悲しい心霊になったとき、良心の最悪感を殺さず、神様のみ恵みと血の恵みを思い続けるようにと助言する。むなしいお友達と交わらず、無益な言葉もいわないで、聞くこともしないで、小さな罪でも黙っていないようにといっている。

それと神様に対しての深い知識―彼の臨在、洞察力、権能、公儀、真実―を生きた体験として所有して、罪の邪悪さと破壊力を持続的に深く自覚して、死と審判の日に対してもよく黙想することを勧めていて、これに関しての聖書を詳しく教えている。使命の道を終える前に、したいことやしたい言葉を全部こぼしだしたジョン・ボンヨンだった。

この本をしめて神様の前にひざまずいたのは、私の心霊が貧しいからでも、かなしいからでもなかったからである。どんなに多くの合理化と弁明で私も悲しい心霊であることを主張したかったのか、神様の前にぼろぼろの衣を着て立っているような感じだった。神様を叫んでいた。私の心霊に悲しみを、貧しさと渇きを下さいますように、私の心をもっと裂いてくださいますようにと。。。

[GNPNEWS]

ハン・ボヒョン宣教師                                        筆者は宣教師として献身して、結婚をして二人を子を産み、現在は夫と共に巡回宣教団のアフリカ支部で福音と祈祷でアフリカの聖徒たちに仕えている。

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