Date

2024-09-08

神の約束と誓い (8)

「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4)

私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。

神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。

「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13)

主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。

だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。

証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。

「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11)

私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞]

キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表)

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