絶滅の危機にあったアニュアク種族のための助け手とお祈りの要請
2012年現在進行形人種掃除現場。アフリカのエチオピアのガンベラ地域である。2003年12月13日アニュアク大虐殺で名乗れたこの地域で、アニュアク種族の虐殺作戦が進む以来、今まで続いていると関係者たちの証言である。
この地域で、アニュアク種族に仕えているある関係者は、‘ガンベラ地域を離れるアニュアク種族が、政治的虐待を避けて、スダンなどを通して脱出する難民が続いている’と言いながら、‘彼ら難民とエチオピア教会のための働きが少しずつ活性化している状況である’と言った。
―悲劇の始まり=アニュアク種族が住んでいたエチオピアの南西部ガンベラ地域の惨劇は、20世紀末植民地の清算過程から始まった。エチオピアと国境と向かい合っているスダンが、英国の植民地から逃れた1956年、アニュアク種族が住んでいた土地が二つになってしまったのだ。ガンベラ地域でアニュアク種族を効果的に統治した英国が、政治的な理解関係で、この地域をエチオピアに渡したからである。
現在、スダンとエチオピアの国境線の南西部の境界がはっきりしてない。地図をみるとスダン側の領域に、エチオピアの領土が急に突き出ている形である。このようにある日、急に線が引かれた国境線の登場で、スダンとエチオピアで分かれたアニュアク種族の前で、悲しい歴史が始まったのだ。
エチオピアへと編入したガンベラ地域には、エチオピアのチグレイ アンハラ種族たちが入り始めた。外部人の進出で、この地域に住んでいたアニュアク種族はその土地から異邦人扱いをされ始めた。
一方このころ、社会主義の国家建立のために、独裁権力を握っていたメンギスツが主導する革命委員会(DERG)は、このガンベラ地域に住んでいたアニュアク種族の移住政策をたてて、強制的に執行した。このように3等級市民として扱われたアニュアク種族は、他の種族に与えられた基本的な教育の機会さえも受けられなかった。
それ以来、いままで数十年間、政府と社会で自国国民が持つどんな権利も、ちゃんとして受けられなかった。本誌の情報員が現地で会ったあるアニュアク種族人の言葉だ。‘アニュアク種族に対した差別は、この国で不文律のようになっている状況です。’
このような差別待遇を受けたガンベラ地域のアニュアク種族たちが、ついに1999年PDC(自民民主議会)を結成して、政治活動を始めた。彼らは執権与党であるEPRDF(エチオピア国民革命民主前線)に正面反旗をあげて立ち上がった。EPRDFは84,5年旱魃と飢饉で飢えていた当時、いろんな種族が反政府立場を表明して造った武装団体として、91年に武装ほう起でメンギスツを除いて政権を握った。
―アニュアク大虐殺=アニュアク種族が長い年月、生きてきたガンベラ地域がエチオピアに編入した以来、彼らの生存権と直結した政治状況は少しずつ悪化した。アニュアク種族に対した虐待行為が最高潮に至ったのは、2003年12月13日の大虐殺事件である。
国際連合難民高等判無官(UNHCR)、ユニセフ、メギリポトなど、人権関連団体の調査結果によると、事件当時アニュアク種族に対しての虐殺は、相識的に行われた痕跡がはっきりと見える。エチオピア正規軍が介入していて、アニュアク種族と関係がよくなかった高地帯の居住種族であるチグレイ、アマラ、オロモ族出身たちが、この虐殺事件に介入したという証拠が出ている。ある生存者が明らかにしたUNHCR関係者に明かした当時の状況である。
‘300人ほどの制服を着た軍人たちが村に入ってきました。彼らは家々を回りながら、男と少年たちを外へ出した後、殴りだしました。そして彼らに逃げてと言った後、男と少年たちが逃げると、後ろから銃を撃って殺しました。その後、村の人たちに会うたびに、銃を撃って殺しました。その時、運転士として働いていた私の息子も車の中で、銃で撃たれて死にました。軍人たちが帰ってから、拾った死人は全部で403人でした。’
―アニュアク難民=このようにガンベラ地域で、アニュアク種族を対象にする迫害が多くなりそうだったので、そこを脱出する人たちが近隣国家の難民キャンプへと寄せてきた。しかしアニュアク種族たちが難民キャンプまでいく旅路、そのものも難しかった。ソウル‐ブサンを二回往復するほどの距離である2000kmの避難道を、死とあらゆる危険を抜け出さないといけないからだ。
飢えと寒さ、暑さと渇き、野生の獣たちと強盗の脅威、軍人と警察の検問、あらゆる病気と事故の危険、なおさらパン一切れを得るために女性たちは体を売らないといけない状況に至ったりもした。
千辛万苦の後に、難民村に到着しても難民判定をもらえなくて、ただ待ち続ける人たちも多くいる。難民キャンプで難民証をもらわないと、どんな恩も得られないことを意味する。
―難民支援=ガンベラ地域から脱出したアニュアク種族が、最終目標地にしている難民キャンプは、スダンの三つとケニャに二つ、全部五つの場所だと知られている。現在アニュアク種族問題に関心をもって、助けている外部支援者および、団体らは彼ら難民たちの脱出過程とか、定着過程を助けている。また何より必要なかれらの霊的必要を見守って、仕えている働きもある。福音を伝えて、教会を立てて、指導者を訓練することである。現在、韓国、オストラリアなどの教会と団体らは、祈って助ける準備をしていると知られている。現地の情報から、彼らアニュアク種族が置かれている死の危機から抜け出すには、勿論彼らの霊的命の回復のためにも、祈りを要請した。
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地下資源の豊富なガンベラ地域のアニュアク種族の絶滅危機
国際団体調査、‘人種掃除’疑惑究明要請。。エチオピア政府無視
濃い黒色の皮膚のアニュアク種族は、ナイル川の通路である土地が肥えているガンベラ地で、長い間農業、狩猟、牧畜などで王国を作り上げてきた。
しかし20世紀後半から始まった、この地域の国境再調整以来、アニュアク広告は急速に敗退して、いまは種族の生存の可否さえ、不透明な状況になった。特にキリスト教を受け入れる停滞性が強い種族としてみなされて、エチオピア政府は、彼らの影響力を極小化させようと政策をしてきた。
教育を受けているアニュアク指導者たちは殺害されるか、失踪していて、女たちは他の種族と強制結婚をさせて、彼らの存在を抹殺しようとする試みが続いている。またそこを脱出した難民たちの脱出経路である南スダンは、他の意図で、スダン地域へ入国した彼らの周辺国脱出を妨害していた。
アニュアク種族をこの地域から追い出そうとする、また違う理由は、この地域の豊富な自然資源に対してのエチオピア政府と周辺種族の貪欲のためだという視覚もある。
彼らは長い間、生きてきたガンベラ地域には、豊富な水資源と金鉱と石油埋葬が確認されたと知られている。これによって、エチオピア政府は、多様な経路を通して、この地来開発に同意することを押しつけて、いまは政府主導の種族抹殺政策として転換したと、関係者たちの主張である。最近ではサウヂアラビア、中国、インドなどで、多国的企業らもここに大規模の投資を検討していると知られている。
現在アニュアク種族の虐殺問題と関連して、アメリカにいるアニュアク ヂアスポラたちが毎年、大虐殺の12月に記念行事を開き、国際人権関連団体に嘆願書を提出するなど、国際的に関心を持つことを要請している。
一方国際連合などで、このような虐殺事件に対しての質問に対して、エチオピア政府は、‘知らん顔’で一貫している。難民発生に対して、エチオピア関係者は、‘人種掃除は言葉にならないし、彼ら(アニュアク種族)は自分の人生を追及しながら、移住以前の自由を楽しんでいる’と弁明していたとメギルレポートは明かした。